オン・ライン読書会「シャーロック・ホームズを読む」の過去ログ
ロンドンでまた事件が起きたみたいですね〜。
ハマースミス線という言葉を聞いたら「ハマースミスの怪人」[1]を思い浮かべました。
不謹慎ですけどシャーロッキアンの悲しき性でしょうか・・・
[1]「ハマースミスの怪人」(June Tomson"The Secret Chronicles of Sherlock Holmes"創元.1990収録)
>土屋さん
僕は「My Fair Lady」じゃなくって、バーナード・ショウの「ピグマリオン」を読みましたが
確かにヒギンズとホームズってキャラクターがダブりますよね。
特に出身地を当てるところなんてホームズそっくりです(笑)
さて「幻影城」(江戸川乱歩.光文社.1979)によりますとスパイ小説も探偵小説として含むようです。
>文献
いいですね〜。面白そうです。
刑法や毒物関係のサイトをもリンクすること希望
>高級なお遊び
司書過程のS木先生がいうには「学問なんて高級なお遊び」だそうです(笑)
では〜
本日7月22日(金)から第二部第6章および第7章に移ります。今回も、前回と同様、重要な新しい登場人物もいないので恒例のまとめはありません。
一応感想めいたことを書くと、現在→過去→現在という展開は「グロリア・スコット号」と同じですが、『緋色の研究』は、まだ洗練されていない印象を受けます。「過去」の部分の舞台がヨーロッパ世界の外部という点も共通していると言えるでしょう。
オチがあまり深くない感じがするのですが、アメリカが舞台の部分でジェファーソン・ホープに感情移入させることで、それを補っている感じがします。アメリカが舞台の部分は、描写が非常に大雑把だと感じていましたが、結果としては、あるとないとでは大違いですね。
土屋さんとじーじょ さんの書き込みにひとこと:
タイタニック号に関して、細野晴臣氏の祖父は、タイタニック号の生存者だとか。乗客の手記によると、他の乗客を押し退けて救命ボートに乗ったらしいです。当時日本人でタイタニック号に乗れたということは、そうとうお金持ちだったのかもしれませんね。
My Fair Lady に若きジェレミー・ブレットが出演しているらしいのですが、どんな感じなんでしょう? ヒギンズ役ではないと思いますが。私は映画・文学をはじめとした芸術一般の古典に疎いのです( Pygmalion も未読です)。
こんばんわ〜
現在→過去→現在という構成でいう構成は同じですが、「グロリア」と『緋色』は微妙に違います。
「グロリア」はこの三者の境界が区別されています。
現在と過去の境目は、
「その男は僕が大学にいた二年間に出来た、たった一人の友達だったのだ」(三上於莵吉訳)で、
過去と現在の境目は、
「君、事件の真相と云うのはこんなわけなんだ。もしこんな事件にも君の研究の役に立つなら、この事件に現われた人々も、さぞかし満足だろうと思うよ」(三上於莵吉訳)
でしょうね。明確化されているわけです。つまり現在/過去/現在という構成をとっているわけです。
それに比べ、『緋色』は現在と過去の境目が「第2部」で明確に分かれていますが、過去から現在に緩やかに移動するので、
具体的にどこから現在に移動したかってのは指摘できませんよね。
だから「現在/過去-現在」っていう構成の方がいいかと。
MasaruSさんの「現在→過去→現在」で括る構成は殆どのホームズ譚がこの構成に入ってしまいますから。
例えば「赤毛連盟」も現在→過去→現在の構成を取っていますし「まだらの紐」も現在→過去→現在の構成を取っています。
でも「ヨーロッパ世界の外部」という点に着目したのは面白いと思いましたね。
ところで・・・構成という点で『緋色の研究』に酷似した小説に『硝子のハンマー』(貴志祐介.角川.2004)がありますよ。
では
初めまして。
最近になって、ここを知ったのですが、いつも楽しく拝見しております。
ところで、「細野晴臣氏の祖父が、他の乗客を押し退けて救命ボートに乗った。」
というのは、いつだったか新情報が出て否定されました。細野晴臣氏も、名誉が挽回できて、大変喜んでいました。
瑣末ながら、訂正まで…
こんばんは。ざっとみたところではwikipediaに載っていました。
ただのさんの話の補足です。
タイタニック号には唯一の日本人乗客として鉄道院副参事の細野正文が乗船していた。細野はイエロー・マジック・オーケストラの元リーダー細野晴臣の祖父。人種差別的な思想を持っていた他の乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられていたが、死後の1941年になって細野が救助直後に残した手記が発見され、その後1997年には細野とその乗客は別のボートに乗っていたという調査報告がなされたため、彼の名誉は回復された。
8月1日に大学の図書館で新聞の縮約版を漁ってみますね。
さて推理作家とタイタニックって意外と関係性深いんですよ。
Jacques Futrelle(ジャック・フットレル)やJ・D・カーも乗ってましたし、
たしかシムノンやヴァン・ダインも載ってたという記憶があるんですけど・・・裏づけは取れませんでした。
では
ラストスパートなので、構成について、さっそく私も書き込みを。
アメリカの部分があるとないとでは大違いとのご意見。
その後の短編でも、事件の背景を説明する部分の面白さ、読みごたえ、重々しさなどが、物語を支えているケースはかなりあると思います。例は《ボスコム渓谷》《スコット号》《曲がった男》など。また、短編ではこの部分が質をそのままにして量(長さ)だけひきしまったために、なおいっそう効果を挙げていると言えるのかも知れません。
とはいえここで浮かんでくるのが、もしドイルが、犯罪の背景にある人間ドラマを書くことが小説の使命である、と考えるタイプの作家だったなら、はたしてこういう短縮化は起きたのかという疑問です。このように考えると、なぜホームズ物語は短編になったのかという問題は、推理小説の発生論として興味深いと思うのですが、いかがでしょうか。
>Fifty three氏
ドイルと同時代の作家は短編メインです。
例えばチェスタートン[1874-1936]は長編がなく、全部短編ですし、
フリーマン[1862-1943]は41の短編と20の長編です。
長編が主流になったのは、1913年の「Trent's Last Case」(Bentry,Edmund.創玄)からです。
参考文献としてhttp://www.aga-search.com
そして僕の評論でも取り扱ったことがありますので、参考までに
http://www5b.biglobe.ne.jp/~detect/study/34.html
では〜
>My Fair Lady に若きジェレミー・ブレットが出演しているらしいのですが、どんな感じなんでしょう? ヒギンズ役ではないと思いますが。
イライザに憧れる青年貴族フレディ役ですね。準主役級の役どころです。
ブレット氏は「マイ・フェア・レディ」にフレディ役で出ましたが、
ヘップバーンと同様にその歌「君の住む街で」は他の歌手による吹替えです。
ファンの私から見てもヒギンズ役のレックス・ハリソンとイライザの父役のスタンリー・ハロウェイなどの個性が強くて殆ど目だってません(^^;)
今回は、テーマ別に書いてみます。
タイタニック号について:
ただの さん、訂正ありがとうございました。じーじょさんも、追加の情報をありがとうございました。
蛇足ながら、「鉄道院」は現在では民営化した JR の母体となる当時の政府機関のようです。細野正文氏はロシヤ留学からの帰路でタイタニック号に搭乗したようです。件の細野正文氏の手記は 、横浜マリタイムミュージアムで一般公開されたこともあったそうです(特別公開「タイタニック日本人生存者の手記」2005年2月19日(土)〜4月10日(日))。
○広報よこはま 全市版 2005年2月号NO.672
http://www.city.yokohama.jp/me/shimin/kouhou/672/009.html
ジェレミー・ブレットについて:
情報ありがとうございます。
ライリー&マカリスター[編]『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ』(原書房、2000年)の p.104 の写真がフレディ役のブレットなのでしょうか? いずれにしても、男前ではあるけれどもインパクトは薄い。準主役級で目立たないのもかわいそうですね。
歌が吹き替えということについて、ヘップバーンは歌が下手だったそうですが(音域が極端にせまかったとのこと)、ブレットも歌のほうはイマイチなんですか?
短編という形式について:
作家と表現形式との関係とは別に、社会と表現形式との関係を軸に、短編という形式の登場・流行を説明することもできるかもしれません。短編が流行し始めるのは多分、19世紀末〜20世紀のはじめごろからだと思うのですが(正確な年代については自信がありません)、中間層の抬頭・識字率の向上などに惹起された知識の大衆化が背景にあり、そこに生まれた雑誌文化の流行が短編という形式を要請したのではないか、と私は考えています。Strand 誌におけるホームズ・シリーズの人気は、この流れにあるのではないでしょうか?
構成について:
じーじょ さんのおっしゃる通り、ホームズ譚のほとんどは広い意味では「現在→過去→現在」という構成なので、個々のエピソードを有効に比較するためには、もう少しモデルを精緻化する必要があったと思います。反省。
構成を気にして読むにつれて、『緋色の研究』の構成は複雑だ(ひょっとしたら混乱している)と感じるようになりました。以下の文章は読みにくいと思います。そして、長いです。それは、私自身が混乱していることと、事柄自体が複雑である(と私は感じている)ことに拠ります。決して読みにくくすること自体が目的ではありません。
まず、この作品のナレーターとして、(1)ワトスン(現代の部分担当)、(2)もうひとりのナレーター(過去の部分=アメリカの部分担当)がいます。これで終りかと思っていたのですが、第二部第3章に註がついており、ここでもうひとり、(3)註釈者が『緋色の研究』のテクストの生成に関わることになります。「結局、全部ドイルが書いてるんだ」などとおっしゃらないでください。この物語が誰の語りによってどのように成立しているかということを解明したいのです。
新潮文庫版(延原訳)では、第二部第3章に「(H・C・ケンボールはあるときの説教で、数百の自分の妻のことを若い牝牛という愛称で呼んでいる――作者)」という註が本文中に挿入されています。しかし、手許の英語版(The Penguin Complete Sherlock Holmes)では、件の註は単なる脚註となっており、新潮文庫版(延原訳)にある「――作者」に該るものはありません。延原訳は註釈者=ドイルと解釈しているわけです。その可能性も充分ありますが、保留しましょう。
第二部第5章の最後で「その告白は、すでにわれわれの負うところの多いワトスン博士の日記にもとづいて、以下順次展開されるであろう。」とナレーター役が引き継がれています。つまり、文面から解る限りでは、もうひとりのナレーターはワトスンとは明らかに別人で、ワトスンの語りを相対化できる位置にいると言えます(「上位の階層にいるナレーター」と言ってもいいかもしれません)。また、第二部第3章の註釈者は、もうひとりのナレーターの語りに註釈できる(=相対化できる)位置にいると言えます。つまり、『緋色の研究』の語りは原則として3層構造になっているといえます。ただ、「註釈者=ドイル」「註釈者=もうひとりのナレーター」「註釈者=匿名の註釈者」、さらに「もうひとりのナレーター=ドイル」ということもありうるので、実際には2層構造かもしれません。
ここで、問題となるのが、
疑問(1):もうひとりのナレーター(過去の部分=アメリカの部分担当)は誰か?
疑問(2):註釈者は誰か?
ということです。夜も眠れません。
>短編
識字率とは関係ないと思いますよ。
その証拠としてあげられるのが他の分野との比較です。
もしMasaruSさんが言うように「中間層の抬頭・識字率の向上などに惹起された知識の大衆化が背景にあ」ったなら、
他の娯楽小説でも短編が主流だったはずでしょう?
しかし、「ジェーン・エア」(Bronte,Charlote"Jane Eyre"新潮.1848)は
新潮文庫で上下巻の長編恋愛小説ですし、
「歴史の中の科学コミュニケーション」(Vickery,Brian,C著)に、
1330年〜1340年に図書が商業化されていたことが述べられています。
商業化していたということは識字率がかなり普及していた、ということが言えるんじゃないでしょうか?
>長編がいつ頃から主流になったのか?
下にも書いてあるように1913年の「トレント最後の事件」があげられますがBentry自身、長編はこれしか残していません。
では長編が主流になるのはいつからでしょう?
1930年にデビューしたジョン・ディクソン・カーが長編23に対し短編は5作しかありませんから
これを論拠に30年代と見なしていいんじゃないでしょうか?
でも一般的には「トレント最後の事件」で長編推理小説の幕開けとされてます。
では
追記:リンクさせていただきました。
ゴールが近づいて、にぎやかになってきましたね。
さて、この小説の語りについてです。ワトスン医師の回想録の復刻作業を一時中断して、アメリカの出来事を三人称の物語という形で語ってきた語り手が、その物語のラストで・(第2部第5章章末)読者の前に姿を現わして、ワトスン医師の回想録の復刻作業に戻ると読者に告げたと考えれば、Masaru Sさんも安眠できたのではないでしょうか。この語り手とは一般的な物語の語り手です。第2部第3章にある注釈は、出版時に追加された、などの説明でOKだと思います。
(ここで老婆心に基づく一言:「語り」と「構成」は分けた方がよいのでは?)
残る問題は、特定の登場人物が書いた回想録の復刻という具体的な語りの形と、アメリカ部分の一般的な三人称の語りとの間にあるギャップ。このギャップが、読者が感じる違和感の源でしょう。この点については、なぜアメリカの出来事を三人称で語ったのか、語り手によるフォローがもう少しあれば、判りやすくなったような気がします。
P.S.同じ2部形式でも《恐怖の谷》では、ワトスンがどうやってアメリカ部分を書いたのか、その理由をドイルは小説内部できちんと説明しました。作家ならではのこだわりが感じられて微笑ましい、と思うのですが……。短編/長編の問題はこの次に。
じーじょ さん:
反論を受けて、もう少し説明してみます。
先の書き込みで私が言いたかったのは、むしろ「雑誌文化の流行が短編という形式を要請した」という部分です。つまり、定期刊行物の誌面を埋めるのに、読切りの短い読み物は適していたこと(雑誌と短編小説の親和性)が短編の流行につながったのではないか、ということです。ただし、あくまでも推測の域を出ません。Cosmopolitan や 1920 年代創刊のThe New Yorker に繋がる系譜を念頭に置いています。もちろん、雑誌連載の長編小説もあったと思いますが。これでは、まだ充分反論に応えられていない気がします。
『歴史の中の科学コミュニケーション』は未読で恐縮ですが、「1330年〜1340年に図書が商業化されていた」としても、おそらくこの時点での図書の多くは写本で、顧客は聖職者や貴族が主で、図書の多くはラテン語で書かれていたのではないかと推測します。ラテン語の識字率は極めて低かったと推測します。1330年〜1340年には、ローカル言語による出版は少なくとも主流ではなかったはずで、ローカル言語による出版が飛躍的に増加するのは、この時期からルネッサンス期にかけてだと思います。つまり、ヨーロッパの学問大系において、神学に対する人間の学=人文科学(human sciences, Humanities)の比重が増すことに関係しているはずです。同時にヨーロッパにおける印刷技術の発展(木版印刷(14世紀?)→活版印刷(15世紀))とも関係するでしょう。この過程で本を読む人の数は拡大したはずですが、「知識の大衆化」と言える程ではないでしょう。せいぜい聖職者・貴族・専門家(官吏・弁護士・学者・医者など)が主たる読者層だと思います。
私が「知識の大衆化」という言葉で表現したかったのは、ロジェ・シャルチエ(Roger Chartier)が言うような意味での、私的な読書を愉しむ近代的な読者の誕生のことで、少なくとも18世紀以降の読者層のことです。
・ロジェ・シャルチエ『読書の文化史――テクスト・書物・読解』(新曜社、1992年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788504332/moujoulyouku-22/
・ロジェ・シャルチエ『読書と読者――アンシャン・レジーム期フランスにおける』(みすず書房、1994年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622045680/moujoulyouku-22/
Fifty Three さん:
「構成」について語ると言いながら、専ら「語り」に集中してしまいました。ご指摘ありがとうございます。
概ね、Fitty Three さんのご意見に同意します。ただ、やはり註釈が気になります。この註釈は、Beeton's Christmas Annual に載った初出の時点で付いていたのか、単行本になるときに付加されたのかなど、新たに気になって来ました。
ちなみに、LA のOccidental College というカレッジの図書館の the Guymon Mystery and Detective Fiction Collection にBeeton's Christmas Annual が納められているそうですが、同図書館のウェブ・ページによると、Beeton's Christmas Annual は Beeton's Magazine という雑誌の年末別冊付録のようなものだそうです("Beeton's Christmas Annual , an annual "bonus" publication of Beeton's Magazine" とあります)。そして、ドイルの原稿料は25ポンドだったそうです。
○Special Collections Department
http://departments.oxy.edu/library/geninfo/collections/special/
大事なことを忘れていました。
次の作品は「まだらの紐」(『シャーロック・ホームズの冒険』所収)です(7月29日(金)から)。
3分割してそれぞれ2週間づつで読むことにしたいと思うのですが、いかがですか? 分割案は以下の通りです。日本語訳は新潮文庫版(延原訳)に拠ります(参考のため原文を付記しました):
(1)第1、2週:
冒頭から「ウォータールーへ行ってみると、ちょうどレザーヘッド行の列車に間にあった。」("At Waterloo we were fortunate in catching a train for Leatherhead, ...")の前まで
(2)第3、4週:
「ウォータールーへ行ってみると……」から「樹の間をもれていたあかりは九時ごろに消えてしまって、……」("About nine o'clock the light among the trees was extinguished, ....")まで
(3)第5、6週:
「樹の間をもれていたあかりは九時ごろに消えてしまって、……」から終わりまで
以上。
こんばんは。かなり学問っぽく(=ヲタっぽく)なってきましたね。
>顧客は聖職者や貴族が主で、図書の多くはラテン語で書かれていたのではないか
はい、確かに1300−1350年頃のラテン語の著者は223人、
ラテン語以外は83人と圧倒的に少ない・・・んですが、
1350−1400年になるとラテン語の著者数は192人
ラテン語以外の著者数は137人(うちフランス語が80人、英語が30人)
この数値をどう見るかはご判断にお任せしますが・・・
しかし、あくまでも著作者数ですからね・・・。西村京太郎のように400タイトルくらい出してる人も、
1タイトルしか出してない人も同等に数えちゃ今の論点じゃ曖昧性が残りますよね
ちなみにSartonが1938年に調べた統計だそうです。
>ラテン語の識字率は極めて低かった
はい、確かにそうです。しかし、以下のような記述があります。
地方語に関する高度なリテラシーがあったことがわかる。それも、一族のものにとどまらず、代理官や土地管理人においても同様であった。また、ロンドン醸造会社は1422年、会社の記録を英語で記すことを決定する。というのは、彼らの報告によれば、多くの社員がリテラシーをもっていたものの、「しかし、社員たちはラテン語とフランス語をどうにも理解しない」という状況だったからである
・B・C・ヴィッカリー「歴史の中の科学コミュニケーション」(勁草書房、2002年)より引用
しかしその一方同著によりますと「300万人のうち3%がリテラシーを持ってい」ましたから
9万人の人口がリテラシーを持っていた、という計算。
ここで問題となってくるのは何のリテラシーか、ということです。
例えば日本のリテラシーはほぼ100%ですが、これは日本語のリテラシーでハングルのリテラシーは10%あればいいほうでしょうね。
恐らく聖職者の話の延長なのでラテン語のリテラシーだとは思いますが。
>印刷術
あってますが、補足をば。
まずそれぞれの印刷技術がどういうものか、確認しておきます。
木版印刷は1ページごとに版画の要領で刷るものです。
それに対し活版印刷はハンコを並べて刷るものです。
木版印刷は中国で6世紀に発明され、1430年ごろに聖書の木版印刷がヨーロッパでスタートします。
ちなみにかのヨハン・グーテンベルグが印刷機を発明したのは1440年〜1450年だと言われています。
高校の世界史の教科書はリファレンス資料としてよく使うんですが
まさか、図書館史のテクストを講義以外で使うとは思ってもみませんでした(笑)
>短編/長編
はい、残念ながら・・・
「雑誌文化の流行が短編という形式を要請した」としたら雑誌連載で長編にすることも可能ですよね。
構成力のある作家は、連載で長編にした方が部数が伸びるんじゃないでしょうか?
続きが気になり、買ってしまいますから(w
僕はむしろ推理小説にフェアプレイの意識が芽生えたんじゃないかと思ってるんですが。
では
この前は書き込みがダブり、失礼しました。パソコンが旧型なので(笑)。できれば『緋色』ノ」の方を削除して下さると……。
『緋色』を取り上げるのは28日までということなので、お約束したとおりに(?)、研究/習作問題を。
『緋色』第1章章末で、「『人として真に研究すべき問題は人間だ』……」とワトスンが話しかけると、「ではひとつ、あの人[=ホームズ]を研究してみてください」とスタンフォード青年は答えます(創元p19)。その後、ホームズは持ち込まれた事件を研究し、そういうホームズという人物をワトスンは研究する。そして第14章章末では、「これが、われわれいっさいの緋色の研究の成果ですよ」とホームズが笑いながら話しかけると、「ぼくは事件を……やがて世間に発表する」とワトスンが答えます(創元p178)
このように、『緋色』では2つの研究の物語が小説全体を貫いています。ですから、第4章章末の'a study in scarlet'(創元p61)に「習作」という意味が含まれているとしても、邦題は物語全体に目配りした上で決めるものですから、この小説のタイトルは、やはり「緋色の研究」がよいのではないでしょうか。
P.S.自伝や各種ドイル伝を読む限り、20代のドイルが長編小説で成功しようと努力していたことは確かです(だから、著作権を手放してまで『緋色』を世に出した)。そして、『マイカ・クラーク』『四人の署名』『ガードルストーン商会』『白衣団』と、着実に長編で成功していった。そういうドイルが、なぜその後ホームズ物語を短編化したのかという疑問は、この後の読書会で「継続審議」にしても意味があると思うのですが……。
じーじょ さん:
書籍や出版の歴史については、具体的なデータを交えての説明、ありがとうございました。私の場合、それこそ高校の世界史程度の理解なので、持ち弾は既に尽きてしまいました。
ちなみに、短編の流行の原因が「雑誌文化の流行が短編という形式を要請した」ためではないとすると、何が理由だと思いますか? Fifty Three さんがおっしゃった、長編にこだわったドイルがなぜホームズものを短編にしたのか、ということと関係ありそうな感じがしてきました。ホームズものの短編化はドイル個人の問題であるだけでなく、何らかの一般的なトレンドと関係するのでしょうか?
Fifty Three さん:
まず、重複した書き込みの、件名「『緋色』ノ」のほうを削除しておきました。
さて、「邦題は物語全体に目配りした上で決めるもの」というご意見に同意します。作品の内容を踏まえて何か発言したいのですが、『緋色の研究』の本を家のなかで紛失してしまっており、参照出来ないので……。我ながらマヌケです。
ひとつ思いついたのですが、「習作」派寄りの観点から、A Study in Scarletは、ドイルにとっての「ミステリーの習作」でもあるという意味に取ることはできないでしょうか?
いずれにしても、翻訳ものは、原則として訳さなければならないので厄介です。最近の洋画のタイトルのように『スタディー・イン・スカーレット』とカタカナで済ませるわけにもいかないですし。
ここで、お詫びしなければならないことがあります。『緋色の研究』は7月28日(木)までで29日(金)から「まだらの紐」とアナウンスしてしまいましたが、これまでの原則に従えば、もう一週『緋色の研究』を続けるべきでした。ここ最近バタバタしていて、日にちの感覚がおかしくなっていました。
ここで、原則から外れますが、勝手ながらアナウンス通り本日29日(金)から「まだらの紐」に移ることにします。ただし、『緋色の研究』について言い残したことがある方は、8月5日(木)まで書き込んで頂いて構いません。本当に申し訳ありません。