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守衛所日誌
思いついたことを、思いついた日に書く不定期日誌。

2006年3月前半

3月1日(水)

2月17日(金)の日記のつづき。

矢作俊彦/大友克洋『気分はもう戦争』(双葉社、1982年)のエンディングと、フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』(Apocalypse Nowのエンディングとの相違から、戦争に対する日本社会とアメリカ社会との態度の違いの一端が垣間見ようという企みを、先日書いてしまった。

 それと同時に、『気分はもう戦争』全体を規定するトーンと、『地獄の黙示録』前半を規定するトーンは共通するとも言った。『気分はもう戦争』では、中ソ戦をめぐって展開する複数のストーリーの登場人物はみな、矮小なかたちで戦争にかかわる矮小な人物として描かれる。これらの小さな物語は、結局大きな物語に収斂することはない。バラけた小さな物語は、手塚治虫もうらやんだというデッサン力、背景や小道具を細部まで書き込むリアリズム、映画を思わせるキレのあるカット割りで描き出されることで、シニカルな戦争諷刺の調子を強める。『地獄の黙示録』前半に見られる、普通の戦争映画であれば荘厳な BGM が聴こてきそうな出撃の場面でヘリコプターの巨大スピーカーからヴァーグナーが流れる描写や、ヴェトナムの前線にありながらも爆弾の破裂するなかでサーフィンのことに気を取られるテン・ガロン・ハットの軍人など、いかにもリベラル知識人らしいシニカルな戦争諷刺に、見るものはついついニヤニヤしてしまう。

 しかし、『地獄の黙示録』後半を規定するトーンは、前半のそれとは明らかに違うし、それはコッポラの演出意図にちがいない。カーツ暗殺の命を帯びて川を上る主人公を運ぶ舟のクルーが次第に命を落としていくにつれて、軽薄な諷刺はシリアスな調子を帯びてくる。川の途中で出会った舟上のヴェトナム人を機銃で撃ってしまったあとで、舟の機関長がまだ息のあるヴェトナム人を病院へ運ぶことを主張する。パニックに陥るクルーたちを尻目にヴェトナム人にとどめをさしたあとで主人公は、ヴェトナム人を機銃で撃ち自ら病院に運ぶアメリカ人の有様を "lie" (字幕では「欺瞞」)であると嘆いて見せる。『気分はもう戦争』では、出来レース("lie" と呼ぶことも出来る)として始まった中ソ戦を嘆く者は誰もいない。

 『地獄の黙示録』では、ジャングルのなかに突如として現れる宗教の神殿を思わせる建造物に住まい、「信者」を従えるカーツのもとに辿り着くも、主人公は囚われる。カーツによって監視された自由を生かされる主人公は、最後にはカーツに使命の鉈を降り下ろし、当のカーツもそれを待ち望んでいた事が暗示される。そして、主人公はアメリカへ戻る。

 ところで、『地獄の黙示録』は、ジョウゼフ・コンラッド『闇の奥』(The Heart of Darknessのヴェナム戦争版である。『闇の奥』(The Heart of Darkness既読者は、『闇の奥』(The Heart of Darkness『地獄の黙示録』を対照させながら鑑賞する愉しみがある。しかし、私のその愉しみは、映画を観終わる頃には諦見に変わった。

 『地獄の黙示録』のノンセンスな諷刺に満ちた前半部分が、大儀なく続くヴェトナム戦争の泥沼を自分の問題として嘆く後半へと推移する。カーツは、支配の継続の困難さを嘆き、主人公も、カーツという人物として受肉したにヴェトナム戦争の闇を嘆く。主人公は、抜け出したくても抜け出せない戦争の代償としての悪循環の永久機関を鉈で断ち切る。戦争批判の映画として知られる『地獄の黙示録』も結局は、嘆き悩める2人のアメリカ人の物語に過ぎないことに私は愕然とした。泥沼から抜け出せないアメリカ人と自分自身を、生贄の牛を切り分けるように断ち切る主人公はアメリカに帰ることが出来るが、切り落とされたカーツはヴェトナムに置き去りにされる。

 『地獄の黙示録』の主人公は、作品前半の軽薄なサーフィン好きの軍人への違和感をカーツへの憧憬にすり替えながら上流を目指す。しかしながら、結局主人公は、「アメリカ」を背負込んで、軍人としての国家への忠誠と個人の倫理との板挟みという、一見普遍的に見えるが──ゆえに、『地獄の黙示録』は映画史上に不動の地位を占め賞賛の的となるわけだが──実は、ヴェトナム戦争という特殊な歴史的局面におけるアメリカという特殊性に規定された作品である。すなわち、同作は、「国家と個人」という普遍的な問に答える映画ではなく、アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための慰めを提供しているに過ぎない。高くつく自慰に過ぎないのだ。

 「アメリカ」を背負込むアメリカ人の映画である『地獄の黙示録』と異なり、『気分はもう戦争』は、胸がすくほどの軽薄さに満ちている。それどころか、ある登場人物は大学に落ち続けた徒然に「スキーに行くと嘘をつい」て(p. 117)中国を助ける義勇兵派遣船に乗り込み、ソ連船にモデル・ガンを発射したことにより、海上保安庁の巡視船からの狙撃で人知れず命を落とす。左翼青年とアメリカ人青年と右翼青年の三人衆は、中ソ戦終結後に新たな戦場を求めアフリカへ船出する始末である。『気分はもう戦争』の登場人物は、誰一人国家を背負込んだりしない。この様な作品の登場は、戦後の日本が、アメリカと異なり、自分の責任で戦争を始めたことがないことの反映ともとれるし、過去の戦争についても「責任」という軸で回顧することがついぞなかったことの反映ともとれる(日本の戦後補償は常に経済支援の形を取ってきた。日朝平壌宣言においてすら日本政府はそのスタンスを変えていない。ちなみに、NHK の番組改変問題で一般に周知されることとなった「女性国際戦犯法廷」は、戦後補償を「責任」という軸で再考する画期的試みであったが、「NHK vs 朝日新聞」の泥試合に矮小化され、その意義が理解されているとは言い難い)。

 だからといって、『地獄の黙示録』のほうがマシだと言うわけでは断じてない。コンラッドの『闇の奥』(The Heart of Darknessは、帝国主義に対する批判的なまなざしから書かれた作品として知られているが、一方で、その語りは帝国主義から自由ではない。コンラッドの『闇の奥』(The Heart of Darknessを現代映画に仕立てるのであれば、コンラッドの語りが抜け出せずにいた陥穽を剔抉し相対化する別様のヴィジョンを提示できなければ意味はないのではないかと、私は考えてしまう。

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3月10日(金)

帰りに池袋のジュンク堂書店に寄ったら、一階に「KADOKAWA世界名作シネマ全集」というのが平積みになっていた。作品の解説と作品の DVD がパッケイジ化されたものだ。その中でも、品田雄吉/原正人『SF映画の傑作―「猿の惑星」「惑星ソラリス」』<KADOKAWA 世界名作シネマ全集 第6巻>(角川書店2006年)が目に留まる。¥3,480 はリーズナブルかも。『猿の惑星』と『惑星ソラリス』という組み合わせは、ある意味でナカナカ絶妙。『惑星ソラリス』のあとの『猿の惑星』は、飲んで帰った夜のポカリスエットみたいで、疲れた脳にやさしそうだ。

 ちなみに、少し前に『ソラリス』の新訳が出たことは聞いていたがまだ買っていない。オリジナルのポーランド語版からの翻訳は初めてとの触れ込みだった気がする。すでに持っている早川版『ソラリスの陽のもとに』は英語翻訳版からの訳らしい。この機会に読み直してみようかな。沼野訳は今後購入。

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