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守衛所日誌
思いついたことを、思いついた日に書く不定期日誌。

2006年7月後半

7月21日(金)

今日の朝日・毎日・日経・讀賣・産経の各紙の社説は、昨日の日本経済新聞の1面で報じられた、富田朝彦元宮内庁長官のメモ(「富田メモ」)を話題にしている。

「富田メモ」全体「富田メモ」部分
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ(日本経済新聞 2006年7月20日)
 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。
 今日の社説についての全体的な感想としては、各社とも練られた議論が展開されていない印象を強くもった。問題自体が、デリケイトだということも理由だと思うが、この問題をこれまで正面から論じることを避けてきた新聞各紙の姿勢が透けて見えているのだろうか。

 各紙とも「富田メモ」には史料的価値があると評価している点では共通している。しかし、結論は、各紙見事にバラバラだというところが興味深い。また、一般的に「昭和天皇のお心」を酌量し同情するという傾向が見られた。この例外は、毎日新聞と、意外なことに産経新聞(よく考えると意外でないのだが、これについては後で言及するつもり)。ちなみに私見だが、いくら形骸化していたとはいえ、統治権(元首)・軍制権(大元帥)・祭司権(現人神)は昭和天皇にあった訳だから、「お心」がどうあれ、天皇の戦争責任を相対化することは難しいのではないだろうか。

 ところで、ふと思ったのだが、全国紙の社説を読み比べるなどということは東京人的な行為かもしれない。

 地方出身者の人には解ると思うが、地方は地方紙のシェアが圧倒的に高い。つまり、地方在住者のほとんど――日本人の多くは、と言い換えてもよいだろう――は、地方紙の社説を読んでいる。しかも、一紙の地方紙が、その県の新聞報道をほぼ独占しているケースが少なくない。そのなかで、地元の地方紙の社説とそれ以外の社説と読み比べる人は一般的に少ない。地方紙の社説で今回の問題がどう扱われているのだろうか? どういう論調の主張がどのような分布になっているのだろうか? 読み比べてみるのも面白いかもしれない――とても、そんな時間はないけれども。

 ちなみに、21日付5紙の社説を独断と偏見を以ってランキングすると:

第1位:毎日新聞
第2位:読売新聞
第3位:日本経済新聞
第4位:朝日新聞
第5位:産経新聞
 この順位は、主張の内容のとはあまり関係ない。その代わりに、論理的であるか、社説たりえているか(その新聞社の主張が明確に提示されているか)という点が重視されている。

 今日から、一日一紙づつ各紙の社説を全文引用しつつ茶茶を入れてみたい。まずは、第5位の産経新聞から:

産経新聞 2006年7月21日
■【主張】富田長官メモ 首相参拝は影響されない

 昭和天皇がいわゆる“A級戦犯”の松岡洋右元外相らが靖国神社に合祀(ごうし)されたことに不快感を示したとされる富田朝彦元宮内庁長官のメモが見つかった。昭和天皇の思いが記された貴重な記録だ。

 昭和天皇が松岡元外相を評価していなかったことは、文芸春秋発行の『昭和天皇独白録』にも記されている。富田氏のメモは、それを改めて裏付ける資料だ。メモでは、昭和天皇は松岡氏と白鳥敏夫元駐伊大使の2人の名前を挙げ、それ以外のA級戦犯の名前は書かれていない。

 靖国神社には、巣鴨で刑死した東条英機元首相ら7人、未決拘禁中や受刑中に死亡した東郷茂徳元外相ら7人の計14人のA級戦犯がまつられている。メモだけでは、昭和天皇が14人全員のA級戦犯合祀に不快感を示していたとまでは読み取れない。

 政界の一部で、9月の自民党総裁選に向け、A級戦犯を分祀(ぶんし)しようという動きがあるが、富田氏のメモはその分祀論の根拠にはなり得ない。

 天皇の靖国参拝は、昭和50年11月を最後に途絶えている。その理由について、当時の三木武夫首相が公人でなく私人としての靖国参拝を強調したことから、天皇の靖国参拝も政治問題化したという見方と、その3年後の昭和53年10月にA級戦犯が合祀されたからだとする考え方の2説があった。

 富田氏のメモは後者の説を補強する一つの資料といえるが、それは学問的な評価にとどめるべきであり、A級戦犯分祀の是非論に利用すべきではない。まして、首相の靖国参拝をめぐる是非論と安易に結びつけるようなことがあってはなるまい。

 昭和28年8月の国会で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。これを受け、政府は関係各国の同意を得て、死刑を免れたA級戦犯やアジア各地の裁判で裁かれたBC級戦犯を釈放した。また、刑死・獄死した戦犯の遺族に年金が支給されるようになった。

 戦犯は旧厚生省から靖国神社へ送られる祭神名票に加えられ、これに基づき「昭和殉難者」として同神社に合祀された。この事実は重い。

 小泉純一郎首相は富田氏のメモに左右されず、国民を代表して堂々と靖国神社に参拝してほしい。

恐るべき読解力・論理力の貧困さ。どうやら、メモに14人全員の氏名が明記されていないという理由で「昭和天皇が14人全員のA級戦犯合祀に不快感を示していたとまでは読み取れない」そうだ。読み取れないのはこの社説を書いた論説委員だけだよ。中学出たのか?

 それでは、産経新聞論説委員ご所望の14人の名前をどうぞ。お好みで「海行かば」を BGM にするのも一興でしょう(参考サイト:「海行かば 解説及び曲」)。

《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》
【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)
東条英機(陸軍大将、首相)
板垣征四郎(陸軍大将)
土肥原賢二(陸軍大将)
松井石根(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)
武藤章(陸軍中将)
広田弘毅(首相、外相)
【終身刑、獄死】
平沼騏一郎(首相)
小磯国昭(陸軍大将、首相)
白鳥敏夫(駐イタリア大使)
梅津美治郎(陸軍大将)
【禁固20年、獄死】
東郷茂徳(外相)
【判決前に病死】
松岡洋右(外相)
永野修身(海軍大将)
 また、「後者を補強する一つの資料」「学問的な評価にとどめるべき」とは、産経新聞ともあろうものが異なことを。「学問的な評価にとどめるべき」という物言いが愚にもつかないことはさておき(政治から自由な学問があるはずがない)、意外なことに、産経新聞が当然展開すると思っていた「昭和天皇のお心」を酌量し同情する議論が見当たらない。それどころか、メモの意義を一つの学問的資料に限定することに腐心すらしている。極右新聞にとって、恐れ多くも天皇のお言葉、座してありがたく拝領するのが本義なのではないか?

 逆説的だが、昭和天皇その人の「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という言葉を契機に、尊皇の立場にたつことが、首相の靖國神社参拝支持を危うくしている。天皇に同意すれば参拝支持が崩れ、かと言って天皇の否定という選択肢が極右新聞に許されるはずもない。その上、首相の靖國参拝に慎重あるいは反対の立場の他者の社説が、尊皇のロジックを独占し、産経新聞は尊皇のロジックから締め出されてしまっている。結果として産経新聞には「なるべく言及しない」という立場しか残されていない。愛ゆえに近づくことができない――悲劇だねぇ。

 「この事実は重い」とは、言語明瞭意味不明。一見意味ありげだが、何も言っていないに等しい。何がどう「重い」のか、そもそも「重い」という言葉で何を含意しているのか? ついでに、これは産経新聞ではなく靖國神社(あるいは旧厚生省)の問題だが、「殉難者」とは笑止な。

※追記(2006年8月10日)
「戦犯は旧厚生省から靖国神社へ送られる祭神名票に加えられ、これに基づき「昭和殉難者」として同神社に合祀された。」とは、サラっと書いてあるけれども、合祀は国家主導ということだ。そもそも政教分離に反していて、重大な憲法違反だ。確かに「重い」ヮ。
参考記事
靖国合祀、国主導の原案 「神社が決定」に変更(朝日新聞 2006年07月29日)

合祀、国が仕切り役 都道府県別にノルマ(朝日新聞 2006年07月29日)

 支離滅裂な議論、歯切れの良すぎる結論。結論ありきで、どうにかその結論に帰着させようと試行錯誤した結果が支離滅裂な議論につながったと想像できる。おそらく産経新聞にとって、そして産経新聞と志を共有する人びとにとって、首相の靖國参拝は、論ずるまでもなく当然のことなのだろう。しかし、いざ社説において論じる段になると、奇妙なねじれが表面化し、論理が通らなくなってしまう。結局「非合理ゆえにわれ信ず」という体の社説になっている。この論説委員に支離滅裂であるという自覚があればよいのだが……。

7月22日(土)

今日は、朝日新聞の社説です。これもヒドい。右と左の両翼が総崩れか:

朝日新聞 2006年7月21日
社説 A級戦犯合祀 昭和天皇の重い言葉

 東条英機元首相ら14人のA級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)されたのは、78年のことである。戦後も8回にわたって靖国神社に参拝していた昭和天皇は、合祀を境に参拝を取りやめた。

 その心境を語った昭和天皇の言葉が、元宮内庁長官の故富田朝彦氏の手で記録されていた。A級戦犯の合祀に不快感を示し、「だから私あれ以来、参拝していない、それが私の心だ」とある。

 昭和天皇が靖国神社への参拝をやめたのは、A級戦犯の合祀が原因だったことがはっきりした。

 合祀に踏み切った靖国神社宮司の父親は松平慶民元宮内大臣だった。メモには、その名を挙げ、「松平は 平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らず」という言葉がある。

 A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生まれ変わった戦後の歩みを否定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう。

 天皇個人としてという以上に、新憲法に基づく「国民統合の象徴」として、賢明な判断だったと思う。しかも、中国などが合祀を問題にする前の主体的な判断だったことを重く受け止めたい。

 戦前、天皇は陸海軍の統帥者だった。自らの名の下に、多くの兵士を戦場に送った。亡くなった兵士の天皇に対する気持ちは様々だろうが、昭和天皇が靖国神社に赴き、戦没者の魂をなぐさめたいと思うのは自然な気持ちだろう。

 しかし、戦争を計画、指導した軍幹部や政治家らを一緒に弔うとなると話は別だ。そう考えていたのではないか。

 メモには「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」と記されている。日独伊三国同盟を推進した松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使への怒りもうかがえる。

 A級戦犯の合祀に対し、昭和天皇がかねて不快感を示していたことは側近らの証言でわかっていた。

 それなのに、昭和天皇が靖国参拝をやめたのは合祀が原因ではないとする主張が最近、合祀を支持する立場から相次いでいた。

 75年に三木武夫首相が私人として靖国参拝をしたことを機に、天皇の参拝が公的か私的かが問題になったとして、「天皇の参拝が途絶えたのは、これらが関係しているとみるべきだろう」(昨年8月の産経新聞の社説)という考えだ。

 こうした主張にはもともと無理があったが、今回わかった昭和天皇の発言は、議論に決着をつけるものだ。

 現在の天皇陛下も、靖国神社には足を運んでいない。戦没者に哀悼の意を示そうにも、いまの靖国神社ではそれはかなわない。

 だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう。それは中国や韓国に言われるまでもなく、日本人自身が答えを出す問題である。そのことを今回の昭和天皇の発言が示している。

 天皇の心境に対して、「A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生まれ変わった戦後の歩みを否定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう。」と踏み込んだ推察をし、「賢明」で「主体的」だと称揚、「自然な気持ちだろう」と理解を示す。朝日新聞ってこんなことを言う新聞だったっけ? でも、これに限らず最近の朝日新聞は、結構「皇室ファン」的な論調が目立つような気がする。「産経=右翼、朝日=左翼」などと単純化してはいけませんよ。

 わざわざ産経新聞の過去の社説に言及し、産経新聞に喧嘩を売ることを忘れない大人気なさ。性懲りもない。「昨年8月の」とだけ紹介し、日付は示さない中途半端さ。ちゃんとしましょう。

 「いまの靖国神社ではそれはかなわない。 」と、A級戦犯分祀を匂わせつつ、「だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう」と靖國神社以外の追悼施設という選択肢も仄めかしている。

 そして、「日本人自身が答えを出す問題である。そのことを今回の昭和天皇の発言が示している」って、「日本人よ、昭和天皇に続け!」という結論ですか?


7月23日(日)

今日は日本経済新聞:

日本経済新聞 2006年7月21日
社説1 昭和天皇の思いを大事にしたい

 昭和天皇が1975年を最後に靖国神社を参拝しなかった理由について、A級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていたことが、故富田朝彦元宮内庁長官のメモによって明らかになった。昭和天皇の意向が信頼性の高い具体的史料によって裏付けられたのは初めてである。

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐって国内に賛否の大きな議論が渦巻き、この問題で中国、韓国との関係がぎくしゃくして首脳会談も開けない異常事態が続いている。新たな事実が明確になったことを踏まえ、靖国参拝問題を冷静に議論し、この問題を他国の意向に振り回されるのではなく、日本人自身で解決するよい機会にしたい。

 昭和天皇が靖国参拝を見送った経緯については、かねてA級戦犯合祀に不快感を抱いていたとの宮内庁関係者の証言が伝えられていたが、靖国参拝擁護派はこうした見方を強く否定し、「三木武夫元首相が75年に私人の立場を明確にして参拝したため、天皇が参拝しにくくなった」と主張していた。

 今回の「富田メモ」によって昭和天皇の意向が明確になり、天皇が参拝しない理由を三木元首相のせいにした主張の論拠はほぼ崩れ去ったと言ってよい。

 昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい。

 A級戦犯が合祀された78年以降、昭和天皇は靖国参拝を見送ったが、戦没者に対する哀悼痛惜の念はいささかも変わりはなかった。高齢にもかかわらず毎年8月15日の全国戦没者追悼式には必ず出席し、哀悼の念と平和への思いをお言葉に託していた。

 戦没者に対して深い哀悼と感謝の念をささげることは当然のことであり、その点に限って言えば、靖国参拝も否定されるべきことではない。しかし、A級戦犯合祀は内外の理解を得るのが難しいのも事実である。中国、韓国の反発だけでなく、米欧の世論も厳しい目を向けていることを忘れてはならない。

 靖国参拝問題は小泉首相が言うように「心の問題」で単純に片づけられるものではない。昭和天皇の「心」の歴史的背景を重く受け止め、小泉首相をはじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい。

まず、「日本人自身で解決する」という言い方が気になる。これは、首相の靖國参拝問題を解決する日本人という主体の定位だ。加藤典洋は『敗戦後論』(講談社、1997年)で、われわれ日本人は、アジア地域等の被害者に謝罪する主体を構築する義務があると主張したが、基本的には同じロジックだ。植民地の戦時動員も、靖國問題の主要な核のひとつだ。となると、日本人とは誰か/誰だったかを問うことを迂回できないはず。安易に「日本人」という主体性を自明視していいのかな。ともあれ、どのような解決策が提案されるか見守りましょう。

 「昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい」――またですか。この論説委員は、社説を書きながら自分が「日本人」であることを再確認しているらしい。

 その天皇の「戦没者に対する哀悼痛惜の念」「哀悼の念と平和への思い」を疑うつもりはないが、「責任」はどこへ行ったのか? 「富田メモ」の発見で天皇の戦争責任はチャラになったのですか?

 社説の後半で「しかし、A級戦犯合祀は内外の理解を得るのが難しいのも事実である。中国、韓国の反発だけでなく、米欧の世論も厳しい目を向けていることを忘れてはならない」と出てくるが、声高らかに「日本人自身で解決する」と前半で宣言しつつも、結局気になるのは外国の反応だったりする。

 小泉首相の「心の問題」を問題視し、「昭和天皇の「心」の歴史的背景を重く受け止め」る――巧くまとめたつもりだろうが、ひっかかる。「「昭和天皇の「心」の歴史的背景」に対するラディカル(根源的)な検証は絶対に必要だ。小泉叩きのために、天皇を無条件に称揚したのでは、「富田メモ」という新史料発見の意味がないではないか。

 さらに、最後に提案されるとばかり思っていた「日本人自身」による解決が、結局「小泉首相をはじめ関係者」の適切な行動を「切に望」むだけというのも拍子抜けだ。他人が自分の思う通りに行動してくれるのを望むだけで問題が解決するとお思いか? それに、「小泉首相をはじめ関係者」以外の「日本人」は「解決」に混ぜてもらえないのですか?

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7月24日(月)

21日の日記で発表した私的社説ランキングの第2位の讀賣新聞です。まともに読めるのはせいぜいこの辺から:

讀賣新聞 2006年7月21日
社説(1)[A級戦犯合祀]「靖国参拝をやめた昭和天皇の『心』」

 直截(ちょくせつ)的な表現に、驚いた人も多いのではないか。

 昭和天皇が、「A級戦犯」の靖国神社合祀(ごうし)をめぐって、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていた。宮内庁長官だった富田朝彦氏の手帳の1988年4月28日付メモに記されてあった。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」に問われた東条英機元首相ら14人が、78年10月、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀された。

 昭和天皇は、戦後8回にわたり靖国神社を参拝されたが、75年11月の参拝が最後となった。今の陛下も、即位後は参拝されていない。

 一方、三木首相による75年の靖国神社参拝を契機に、公人としての参拝か私人としてかが、政治問題化した。

 昭和天皇が参拝されない理由は「A級戦犯合祀」なのか、「公人・私人」の政治問題を避けるためなのか。二説があったが、憶測の域を出なかった。メモの発見により、一つの区切りがついた。

 富田メモには「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」とある。松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使を指したものだろう。2人は、日独伊三国同盟の締結を推進し、そのことが日米開戦の大きな要因ともなった。

 90年に公表された「昭和天皇独白録」の中で、昭和天皇は松岡元外相について「『ヒトラー』に買収でもされたのではないか」と厳しく批判している。

 昭和天皇は、一貫して戦争を回避することを望みながら、立憲君主としての立場を踏まえて積極的な発言は控えたとされる。その立場から、戦争責任を問われるべき指導者の合祀に納得できなかったということだろうか。

 別の資料だと、同じ「A級戦犯」でも、木戸幸一元内大臣については、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と語ってもいる。

 富田メモは、「A級戦犯」分祀論議にも一石を投じることになろう。

 だが、靖国神社は教義上「分祀」は不可能としている。政治が宗教法人である靖国神社に分祀の圧力をかけることは、憲法の政教分離の原則に反する。麻生外相は、靖国神社を国の施設にすることを提案しているが、これも靖国側の意向を前提としない限り不可能だ。

 靖国神社には、宗教法人としての自由な宗教活動を認める。他方で、国立追悼施設の建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の拡充などの方法を考えていく。

 「靖国問題」の解決には、そうした選択肢しかないのではないか。

「昭和天皇は、一貫して戦争を回避することを望みながら、立憲君主としての立場を踏まえて積極的な発言は控えたとされる。その立場から、戦争責任を問われるべき指導者の合祀に納得できなかったということだろうか。」――讀賣は、天皇無謬の立場なのだろうか。とはいえ、「ということだろうか。」と語尾をぼかしながら、これを一部反証する「別の資料」をぶつけてくる。両論併記とも読めるし、「富田メモ」から距離を保とうとしているようにも見える。さてどちらか?

 「富田メモは、「A級戦犯」分祀論議にも一石を投じることになろう。」――と結局逃げられた。

 「政治が宗教法人である靖国神社に分祀の圧力をかけることは、憲法の政教分離の原則に反する」には概ね同意。この見解に基づいて、なおかつ国民的な追悼施設にこだわれば、結論は必然的に「靖国神社には、宗教法人としての自由な宗教活動を認める。他方で、国立追悼施設の建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の拡充などの方法を考えていく。」となる。

 靖國神社以外の施設という「選択肢しかないのではないか」と明言している点は潔い。しかし、「国立追悼施設」や「無名戦士の墓」自体がもつ問題性については、讀賣新聞は自覚的でないのかもしれない。


7月25日(火)

最後は毎日新聞です:

毎日新聞 2006年7月21日
社説:昭和天皇メモ A級戦犯合祀は不適切だった

 昭和天皇が、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を抱いていたことを示す富田朝彦元宮内庁長官のメモが明らかになった。「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という簡潔な表現は真に迫っている。史料価値は高い。

 これまでも、1975年以降、昭和天皇が靖国神社へ参拝に行かなくなった理由については、A級戦犯の合祀に不満だからであると言われていた。そして、それがA級戦犯の分祀を求める意見のひとつの根拠になっていた。

 しかし、政界や靖国神社関係者などには、A級戦犯を裁いた東京裁判の不当性を主張すると同時に、天皇の靖国参拝中断はマスコミが騒ぐせいだという声高な反論があった。その論争は、富田メモではっきりと決着がついた。

 中曽根康弘氏は首相として1985年に靖国神社を公式参拝したが、中国の批判を受け翌年の参拝を断念した。この時、富田元長官は「靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下から言われております」という電話を、首相官邸に入れた(岩見隆夫「陛下の御質問」)。昭和天皇は、首相の靖国神社公式参拝にも反対だった。

 富田メモから、昭和天皇の思考の一端がうかがえる。「松平(慶民元宮内大臣)の子の今の宮司がどう考えたのか。易々(やすやす)と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている」というくだりである。

 先代の筑波藤麿宮司が棚上げにしてきたA級戦犯合祀を実行した松平永芳宮司に対して、親不孝だという強烈な批判をしている。「易々と」という苦々しい言葉は、A級戦犯を合祀しようとする人々に昭和天皇が反対していたことを示している。

 戦前の靖国神社は、国民が戦死者をとむらう宗教施設ではなかった。天皇が、天皇のために戦死した軍人たちの栄誉をたたえる顕彰施設だった。戦死者の遺族は「息子が天子様のお役に立てた」という論理で悲しみを癒やされる建前だった。だから天皇による親拝は靖国神社の本質だったのである。

 戦後、宗教法人になり、皇室から独立した。だが、天皇によって遺族が癒やされるという戦前の伝統は、天皇の私的参拝という形で続いていた。それが絶たれた原因は、A級戦犯合祀という神社側の選択にある。

 もちろん、宗教法人となった靖国神社が、天皇と歴史観、戦争観が違っていても自由である。メモにしても天皇個人の気持ちにすぎない。小泉純一郎首相のように「それぞれの心の問題」と考えるのも自由だろう。

 だが、そうだとしても戦没者に感謝と哀悼の誠をささげるための施設として議論の余地がないなら、なぜ内外で大きな論議を呼ぶのだろうか。その最大の原因は、A級戦犯合祀にある。その事実を冷静に考えるならば、いまの状態で首相が靖国神社に参拝するのは、やはり適切ではない。

 「戦前の靖国神社は、国民が戦死者をとむらう宗教施設ではなかった。天皇が、天皇のために戦死した軍人たちの栄誉をたたえる顕彰施設だった。戦死者の遺族は「息子が天子様のお役に立てた」という論理で悲しみを癒やされる建前だった。だから天皇による親拝は靖国神社の本質だったのである。」――この点を明示した社説は毎日新聞だけだった。他紙は天皇の参拝を専ら「戦死者を悼む昭和天皇のお心」という軸でしか論じていなかった。

 解決案については、「今の状態で首相が靖国神社に参拝するのは、やはり適切ではない」とA級戦犯分祀を匂わせてはいるが、明言を避けている。また、靖國神社以外の施設の可能性については触れていない。いずれにしても、結論が弱すぎる。

 結論をぼかした点は減点だが、21日付の社説の中ではもっとも練られている印象を受けた。靖國神社参拝問題の略史を紹介しながら議論を展開している点も親切だ。靖國神社参拝の問題は、一見歴史的な意匠で議論の俎上に上がりながら、実のところは現代的位相におけるイデオロギー対立として矮小化されている気がする。靖國神社を歴史的位相にきちんと据え直して議論すべきだと思う。

 昭和天皇に対しても、適切な距離を保ちながら論じている点もジャーナリスト然としている。他方、最近「ジャーナリスト宣言」している某紙は、すっかり皇室ファン。


7月26日(水)

今日、最も気になったニュース。ある意味で、靖國問題と無縁ではない:

韓国政府、関与認める 金大中事件、近く報告書公表(朝日新聞 2006年07月26日)

 【ソウル=市川速水】73年8月に東京で起きた金大中(キムデジュン)氏(後に大統領)拉致事件について、韓国政府の真実究明委員会は、当時の情報機関・中央情報部(KCIA)による組織ぐるみの犯行と断定する報告書をまとめた。近くKCIAの後身の国家情報院が公表する。韓国歴代政権は一貫して事件への関与を否定してきており、政府として認めるのは初めて。報告書は当時の李厚洛(イフラク)KCIA部長が直接犯行を指示し、二十数人が役割を分担したことを確認。焦点とされた朴正熙(パクチョンヒ)大統領自身の指示については明確な証拠は見つからず、「否定する根拠はない」との結論にとどまった。

●朴大統領指示「否定の根拠ない」

 事件後、日韓両政府は2度にわたって政治決着を図り、真相究明を棚上げした。しかし、盧武鉉(ノムヒョン)政権が軍政時代の民主化運動弾圧事件の見直しを指示し、昨年2月から官民からなる国情院長の諮問機関の究明委メンバーが再調査していた。当時の内部文書の大半がすでに処分されており、事件関係者ら約50人からの聴取を重ねて犯行の構図を総合的に検討。約100ページの報告書にまとめた。

 拉致の現場から指紋が発見された東京の韓国大使館のKCIA要員、金東雲(キムドンウン)・元1等書記官は韓国に健在で、究明委に自身が実行に関与したことを認めた。また、別の複数の元KCIA職員は、李・元部長から犯行の指示を受けたと証言した。李氏は高齢の上、認知症が進んでいるといわれ、健康上の理由で聴取に応じず、李氏が拉致を企てたのか、朴大統領らの指示に基づいたのかの結論が出なかったという。

 ただ、究明委関係者は「前後の民主化運動弾圧事件などの再検証では大統領の指示が確認されており、関与がなかったとはいえない。少なくとも拉致後の経過は把握していた可能性が高い」としている。

 金大中氏殺害の意図については「拉致したホテルで殺そうとした」と認める供述があった一方で否定する証言もあった。ただ、全体の流れをみると、殺害可能な機会が少なくなかったことなどから「指令自体には殺害は含まれなかった」と結論づけた。

 韓国政府関係者は、公権力の関与を初めて認めることに対し、「結果を受け入れるしかない。国内問題としての事件の最終的な処理であり、過去の韓日関係を蒸し返すつもりはない」と話す。事件翌年に打ち切った国内捜査の再開や事件に関与した元職員らの処罰はしない方針だ。

 しかし、金大中氏に対しては政府の謝罪を検討している。日本では事件関係者の「海外逃亡」で時効が中断したままになっており、形式上は今も捜査が続いている。

◆キーワード
〈金大中氏拉致事件〉 73年8月8日、当時の朴正熙大統領の独裁を批判して日本で民主化運動をしていた金大中氏が東京都内のホテルから白昼連れ去られ、5日後にソウルの自宅近くで解放された。

 韓国大使館の中央情報部(KCIA、国家情報院の前身)要員である金東雲1等書記官の指紋が現場から発見され、日本では公権力による主権侵害だとして対韓国非難が高まった。第1次政治決着を経て韓国捜査当局は金書記官に嫌疑なしと断定。翌74年8月に捜査打ち切りを通告した。

この件に関して、宮崎哲弥は某ラジオ番組で、KCIA の関与の可能性については同意しつつも、ハード・エヴィデンスを見たいと留保していた。「ノ・ムヒョン政権の真相究明委員会というのは、やっぱりこれ自体が、ある種の政治性が色濃くて」「パク・チョンヒ大統領の[……]立場を貶めたいというのがノ・ムヒョン政権の目的なんですよ」と言い切っていた。パク・チョンヒ元大統領の直接関与は確認できなかったという報に対して「それは残念だったと思います」と、半笑いで揶揄していた。

 ノ・ムヒョン政権の「ある種の政治性」を私も否定はしないし、パク・チョンヒ元大統領に対するノ・ムヒョンの立場や感情も、宮崎の見立てからそれほどは外れていないだろう。しかし、宮崎のコメントは、韓国の過去事真相究明特別委員会を矮小化しすぎてはいないか。10代から30代ぐらいの、自分でモノを考えようと努めている(と少なくとも自認している)人たちに対する宮崎哲弥の影響力は絶大だ。宮崎がこういうことを言うと、真に受ける人たちが多いはずなので、ちょっと困る。宮崎は「パク・チョンヒ大統領の[……]立場を貶めたいというのがノ・ムヒョン政権の目的」だという「ハード・エヴィデンス」を見たのだろうか?

 真相究明委員会が扱う主要なテーマのひとつに親日派(大日本帝国植民地期の朝鮮人対日協力者)の問題がある。それゆえ日本では、「親日派に関する真相究明=植民地時代の歴史の蒸し返し」と理解されている場合が多く、ノ・ムヒョンが「反日的」であるという評価につながっている。

 また、パク・チョンヒ元大統領は親日派の代表ともいえる。植民地時代には日本の陸軍士官学校を出ており、当時の人的つながりが、開発独裁による「漢江の奇跡」(韓国の経済発展)と無縁ではないはず。パク・チョンヒ軍事政権期の民主化運動弾圧に関する真相究明は、ことによると、「陸士つながり」の日本の大物政治家(やその縁者)にとっても痛いはず。

 ただ、真相究明委員会の、「真相究明」は、将来の統一を視野に入れながら、歴史の清算を進めるというのが趣旨のはず。また、プロジェクトに参加している委員の間にも微妙な温度差がある。たとえば親日派の問題についても、真相究明を親日派の処罰実現につなげたい(真相究明の正義モデル)委員もいれば、真相究明を統一に向けた和解のためのステップ(真相究明の真実・和解モデル)と考えている委員もいる。プロジェクトはひとつでも、そこに輻輳する多様な利害(interests)は、「パク・チョンヒ大統領の[……]立場を貶めたい」というだけでは説明できない布置の連関を織り成している。従って、宮崎の見立ては、一面的過ぎるのではないかと思える。また、ハンナラ党が次の選挙で政権を獲ったら(そしてパク・ウネが大統領になったりすればなおさら)、「真相究明」は頓挫するだろう。ノ・ムヒョンだから手を付けることができたともいえる。

 ところで、阪本順治[監督]『KT』(2002年)(ヘヴィーな映画でした)では、キム・デジュン(金大中)の拉致に日本の自衛隊が関与していたが、実際のところどうなのだろう。報告書の発表を待ちたい。

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