6月22日(木)
いつ読める時間がとれるか判らないけれども、この間の日曜日に古書展でガルシア・マルケスの『百年の孤独』を買ってみた。未だ読んだことはないがいつかは読んでみたいと、少なからぬ憧れのような感情を伴って心の中にリスト・アップされた作品がいくつかある。『百年の孤独』もそういう作品のうちのひとつだ。
しかし、今回日記に書こうとしているのは、『百年の孤独』の感想でも批評でもない。まだ読んでいない。今回書くのは古書市についてである。
たいてい古本屋の店舗で本を買うと、値段は裏表紙をめくったところに鉛筆書きされている。しかし、古書市では同じ場所に、書店名と値段が書かれた札が貼ってある場合が多い。複数の書店の合同で開催されるが、会計所が統一されている古書市において、店ごとの売り上げを明確化するための工夫なのだと思う。
家に帰って買った本を見るときに、この値札が結構おもしろい。古書市には、今までに私が行ったことのない、それどころか、生活圏内にないという理由で存在にすら気付かずにいた書店も参加する。古書市の値札は、そういった未知の古書店の存在を知る好機なのだ。
ちなみに、『百年の孤独』に付いていた値札には
そして、値札の住所を元に、店を訪ねてみたりもする。そういう意味では、古書市の値札には店を宣伝する効果もあるということだろうか。ときどき、この値札に店の住所が書いていない場合があるが、もったいないことだ。
「げんせん舘」は下連雀と代々木に店があるようだ。下連雀は家から遠いので、とりあえず代々木の店に、今度行ってみよう。
¥200
とある。屋号から察するにご主人は、つげ義春ファンなのだろう。ふたつ店を出しているということは、それなりに繁盛している店だと思われる。『百年の孤独』を古書市に出したのは、店の主要ラインナップと路線が異なる本だからだろうか――値札を見ながらそういうことを空想するのが密かな愉しみなのだ。
げんせん舘
三鷹店 三鷹市下連雀○-×-△
TEL ****-**-****
新宿南口店 渋谷区代々木○-×-△
TEL **-****-****
6月24日(土)
三鷹の三鷹市美術ギャラリーの「没後30年 高島野十郎展」に行ってきた。
高島野十郎は写実的な画風を特徴とする洋画家で、東京帝国大学水産学部を首席で卒業しているという、画家としては異色とも言える経歴をもつ。
高島野十郎を私が知ったきっかけはテレビ東京の「開運なんでも鑑定団」だったので、結局私もただのミーハーにすぎないのだが、それ以来何となく彼の絵が心に引っかかっていた。そして、福岡で始まった回顧展が三鷹に来るという噂を聴いて、今回出かけてみたのだ。三鷹に行くのは初めてだった。
展示は、作品制作の年代順になっているようだった。全体として作品のサイズが小さい。とはいえ、凝縮された精密な写実描写は、サイズの小さなキャンバスのなかで異様な存在感を主張している。
初期の自画像「傷を負った自画像」は、参議院議員・山本一太に似ていた。ヨーロッパ時代の風景画には、正直言って、心を揺さぶられるものは感じなかった。途中ゴッホの影響を受けた作風を感じさせる時期もあるが、最終的には「見えるすべてに等しくまなざしを注ぐ」写実的な画風に帰着し、その態度を彼は「慈悲」と呼んだそうだ。確かに、野十郎が仏教に傾倒していたという事実から、「慈悲」という言葉が一定の説得力をもって了解されてしまうのかもしれない。確かに、「慈悲としての写実」期の野十郎作品は、徹底した写実主義によって貫かれている。しかしながら、「慈悲」と呼ぶことによって捨象されかねない偏執狂的な狂気の凄みこそが、私を惹きつけた野十郎の魅力だ。
私が彼の作品群のなかで最も心引かれた連作「月」と連作「蝋燭」 は、偏執狂的な狂気の絶頂である――と少なくとも私は感じている。連作「月」においては、最初は、背景の雲や樹の枝などが描き込まれているものの、最終的には月と闇だけの画面構成に至る。要は、紺碧の闇のなかに真円の光源が描かれているだけなのだが、野十郎の言によると、彼が連作「月」において描きたかったのは、月ではなくむしろ闇だったという。
より偏執狂的な狂気を感じさせるのは連作「蝋燭」だ。いずれも闇のなかの短い一本の蝋燭が描かれている作品群で、微妙な差異はあるもの、いずれの絵も基本的な構図はすべて同じである。連作「蝋燭」は、生前に展覧会などに出展されることはなく、専ら友人に贈られたもののようだ。連作「月」と異なり、連作「蝋燭」については、創作意図や動機を一切語っていないそうだ。
パンフレットや館内の解説は、「月」「蝋燭」を仏教への傾倒と結び付けて論じていたが、私は別のことを想い浮かべた。つまり、野十郎は、おそらく連夜遅くまで起きていて、憑かれたように月や蝋燭を見ていたに違いない。ひとつの対象に対する偏執は、「月って何?」「蝋燭の火は何で揺れるんだ?」などと、観察者を思考の迷路に迷い込ませることがしばしばある。迷路の中で、ただ見つめている蝋燭や月に意味を求めながら、求めれば求めるほど次第に意味を取り逃がしてしまう。結局は、何も考えずにボーっと蝋燭や月に見とれている自分にはたと気づいたりする。これが、ある意味では「無」の境地と言えなくもないし、仏教的な思索やその果ての悟りに近似していると言えなくもない。などと、他愛のない考えを弄んだりしてみた。
売店で、「蝋燭」 がプリントされたクリア・ファイルと図録を購入。 家に帰って改めて図録をめくってみたが、やはり実際に絵を見たときの感覚には及ばない。 特に連作「月」の闇の紺碧の深みは、本物を実際に見るしかず。