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守衛所日誌
思いついたことを、思いついた日に書く不定期日誌。

2005年5月前半

5月1日(日)

酒見賢一『墨攻』(1988年初出、新潮文庫、1991年)を読んだ。

 確か、漫画化もされていたし、むしろ作品の存在は漫画を通して知ったが、小説も漫画も共に未読だった。先日古書店巡りの途中で「普段は読まないようなものを、思いつきで買って読んでみよう」と思い立ったとき、『墨攻』のことが頭をよぎった。漫画のほうを買おうとも思ったが(読むのがラクそうという理由で)、文庫本の小説のほうが遥かに経済的(¥150)なので、後者を選択した。

 漫画のほうを避けていたのは、苦手ではないが、何と言うか「目が疲れる画風」という印象をもっていたからだ。漫画のほうの作画者(名前は失念)のしっかりと描き込まれた重厚で写実的な画風から、小説のほうも歴史小説然とした擬古的な文体(中島敦のような感じ)を想定していたので、虚を衝かれた。作品の性質上、見慣れない漢語は多数登場するが、文章自体は淡泊で非常に読みやすく、あるいは(この作品に関しては)ミニマリストとさえ言える。また、なによりも、防禦に特化した兵法の専門家としての墨子集団というモチーフ自体が、非常に魅力的だ。小一時間かそこらで一息に読み了えてしまった。

 粗筋としては、大国・趙の大軍に将に攻められんとする小国(地方豪族)・梁に派遣された、独特の思想・兵法で知られる墨子集団の軍師・革離が、邑人を総動員して梁の城邑の守りを堅め、趙の司馬・巷淹中を迎え撃つ、という話。

 不満を言えば、あっさりし過ぎていて、主要登場人物の内面描写ですら最低限に止められているため、キャラクターが非常にフラットに見えてしまう。また、あくまでも私の好みの問題だが、戦争に否応無く総動員されていく邑人の戸惑いや、邑人が革離に信頼を寄せるまでの過程を群衆劇風に描写し挿入するのも面白そうな気がする。ただし、こちらを厚く描いてしまうと、歴史小説的な重みのようなものが相対化されて説得力が薄れてしまったり、 小国の防禦を堅める兵法専門家としての墨子集団というモチーフ自体の興味深さが後景に退いてしまうかもしれない。しかしながら、政治に傾倒する現在の墨子集団の鉅子(=リーダー)・田襄子に不満を抱き、「弱きの救援を行う」という墨子集団の本来の規矩に従おうとする革離の内面を、邑人の社会心学的理描写を通じて際立たせることもできるだろう。

 とはいえ、非常に面白い。中国の歴史モノに疎い素人の私にも読みやすい文体と、文庫で150ページぐらいという短さで、これほどの作品世界を描き切っていることには驚嘆する。世には無闇に長い小説がよくあるが、あれは一体なんなんだろうか、と思わせる。

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5月2日(月)

明日の休みを当て込んでいるせいか夜中になってもなかなか眠れず、部屋の一角にできた本の塚を漁っていると、南條竹則『中華満喫』<新潮選書>(新潮社、2002年)が出てきたのでパラパラめくる。南條氏は、日本ファンタジーノベル大賞の入賞者(優秀賞)で、因みに、昨日の日記の酒見賢一氏とは、年次は違うが、日本ファンタジーノベル大賞繋がりである(酒見氏は大賞)。

 南條先生は……わざわざ「先生」と呼ぶのは、作家先生に取って付ける単なる社交辞令ではなく、実際に大学で先生の授業を2年に渡って受講したことがあるからだ。まぁ、おそらく先生は私のことなどお忘れだろうが、文字通り「先生」だったことには違いない。本職は作家だが、少なくとも当時は電気通信大学の先生で(現在のご所属については未確認)、ウチの大学では非常講師として開講しておられた。19世紀デカダン詩講読の授業で、「僕は真っ赤な薔薇を捲き散らしながら踊った、白百合のような君を忘れるために」みたいな感じの詩(アーネスト・ダウスン(Ernest Dowson)のいわゆる "Cynara" (正確なタイトルは失念)だったと思う)などを読んだ。どっちかというと、私はどちらかと言えばビートニクスのような詩のほうが好みだが、デカダンはデカダンでナカナカ愉しめた。

 しかし、授業の大半は、本題であるはずの詩もそこそこに、酒と温泉と中華料理、そして先生が愛して止まないジョイ・ウォン(JOEY WONG 王祖賢)の話に費やされていた気がする。先生がかつて映画誌『ROADSHOW』でジョイ・ウォンと対談なさったときの写真を嬉しそうに見せて下さった。先生が(おそらく成人してから)広東語をマスターなさったのも、ジョイ・ウォンへの愛の成せる業なのだろうか。あるご本ではジョイ・ウォンに献辞もしておられた。また、驚いたことに、「原宿の一軒屋に婆やと一緒に住んでいる」とも仰っていた。家に婆やがいる人の実在を肉眼で確認した初例が、南條先生だった。変人といえば変人だが、実に面白い方だった。

 件の授業の受講者は5〜6人ほどで、ほとんど私の同級生ばかりだった。幻想文学に滅法強い作家志望の友人が、先生が日本ファンタジーノベル大賞の入賞者と知って感心していたが、私はそのような賞があることをそのとき初めて知った。因みに、先生は、そのときの賞金を全額投じて自らツアーを組んで、お知合いを招待し、中国で満漢全席を催したとか。スゴい。そのときの話は『中華料理小説 満漢全席』(新潮社、1995年)に「東瀛の客」として収められており(コレがオモシロい)、詳しく知ることができる。

 先生は、単に人間的に面白いばかりでなく、学部生時代は東大の文学部で西洋古典学を専攻し、大学院では英文学を研究なさったとかで、授業で確認できただけでも、英語・ギリシャ語・ラテン語・フランス語(そして広東語)に通暁していらっしゃった。また、古今を問わず西洋の韻文に関しては驚くほどの博識であられた。

 年度末に、子日く「今日は最後だから食事にでも行きませんか? 最近、日本一旨い中華料理を食べさせる店を見つけましたから」と。「美食家の先生のことだからサゾやモノ凄い店に連れて行って下さるに違いない」と期待した。店に入るや銅鑼の音が鳴り響き、左右に虎の剥製が待ち構え、チャイナ・ドレスの美女が席まで案内してくれる……貧困なステレオタイプを弄びつつそんな感じの高級店を勝手に夢想して悦んでいると、大塚駅前の「ホープ軒」の隣にある「世界飯店」という庶民的な構えのこぢんまりした広東料理店に案内された。一部の人たちの間では非常に有名な店だということが後のち判ったが、そのときは、ありふれた中華料理屋にしか見えず、店内の隅には食材の入った段ボール箱が雑然と積まれており、少し消沈した。 先生が「ここは本場の味に一番近い」と仰る以上、味音痴の私などは、そうなのだろうと信じて待つ他なかった。先生が流暢な広東語で次々と料理や酒を注文して下さり(ご店主は広東の方なのだろう)、結構な種類の料理を先生の解説付きで頂くことができた、もちろん先生のオゴりで。確かに美味しかった。

 この日記をご覧の方が先生の人となりを知るには、おそらく、次のウェブ・ページをご覧になるのが良いだろう:

○「お湯と仙人」南條竹則
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/magazine/m-teiki/hon/hon_nanjo-t.html
ただし、このページは既に削除されており、Google のキャッシュも残っていないようなので、Internet Archive に保存されたファイルでご覧になるしかないと思う。私は、このページの、北寄貝の刺身のエピソードが非常好きなのです:
http://web.archive.org/web/20010711022038/http://www.bookclub.kodansha.co.jp/magazine/m-teiki/hon/hon_nanjo-t.html
次のサイトでは先生の入浴シーンすら見ることができる:
○本の話連載|湯けむり読書日記
  http://www.bunshun.co.jp/series/yukemuri/yukemuri_index.htm
こんな回想をしながら先生の本を読んでいると、目でなぞる文章が先生の声で聴こえてきて、ふと想い出し笑いがこぼれる。

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5月3日(火)

今日は憲法記念日です。

 今日のNEWS23では、筑紫哲也・立花隆・宮台真司というトロイカの憲法鼎談だったが、ハッキリ言って低調だったと思う。

 某ラジオ番組で宮崎哲弥が、果たして今の憲法が歯止めになっているかというモットモな疑義を表していた。ニュースに対する短いコメントだったが、こっちのほうが遥かに触発された。宮崎は、『週刊金曜日』の記事に言及しつつ、「憲法が社会にあわなくなくなったのではなくて、社会が憲法にあわなくなった」とする護憲派の主張(これは、4月20日の NEWS23 での土井たか子の主張と同じ)を根本的な間違いだと批判し、「憲法のために社会や国があるのではなくて、社会や国のために憲法がある」「とするならば、社会や国が変わったとするならば、そこでキチンと機能するような憲法でなければならない」と、護憲派の議論の問題点を指摘していた。そして宮崎は、「今の現状では憲法九条とうのは、ちっとも歯止めになっていない、という風に思います」と締め括っていた。

 このあいだのNEWS23 での桝添要一 vs. 土井たか子の対立図式だと、桝添の論理があまりにも杜撰で非道いので、「護憲派」の私は、土井たか子の主張に一部乗ったのだが、今回の宮崎の議論には一理あると言わざるを得ない。上述のコメントだけからでは憲法に対するポジションは不明だが、とにかく改憲派ではあると思われる宮崎の論理は、筋が通っていて、「護憲派」にとっても有益だ。ただし、どの様な理念に基づいたものであれ、ひと度改憲が既成事実化すると、改憲へのハードルが低くなり、度重なるマイナー・チェンジにより段階的に自分の望まない憲法へ変えられてしまうことを危惧し、それだったらパンドラの函は開けずにおこうと現行憲法に固執する、護憲派の情緒的な恐怖は充分理解できる。

 変化した社会や国において「キチンと機能するような憲法」とは、いわゆる改憲派にとっては、「自衛軍」の海外派兵により軍事的手段で「国際貢献」ができる憲法だが、戦争の放棄を望む平和主義者にとっては、憲法九条が自衛隊の海外派遣の歯止めとして確実に機能する憲法だ。

 護憲の本義とは戦争の放棄だ。平和憲法の死守だ。憲法九条を死守することは、その手段のひとつであり、目的そのものではない。「憲法のために社会や国があるのではなくて、社会や国のために憲法がある」という宮崎のテーゼを、軍事的な「国際貢献」のために改憲することと解釈するのではなく、「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」の精神で解釈し、歯止めにならない憲法(=過ち)を平和主義が貫徹のために改めることも選択肢のひとつかもしれない。

 精神を忘れて条文に固執するのか、精神を取り戻すために条文を新たにするのか──「護憲派」は自らを軛から解き放ち、選択することを迫られている。


5月8日(日)

「アルフォート」というお菓子をご存知だろうか?

 ブルボンから発売されている、同じぐらいの大きさのビスケットとチョコレート(三檣帆船が浮彫りされている)とを張合せたようなお菓子である。別に好きな訳でもないし、食べることもほとんどないが、ある漫画のおかげで、その名前が妙に記憶に残っている。今日、スーパーで目立つところに陳列されて安売りされていたので、漫画のことを想い出して買ってみた。

 その漫画とは、花輪和一『刑務所の中』(青林工藝舎、2000年)のことである。この漫画は、ガン・マニアが度を超して、銃刀法違反で懲役3年・執行猶予ナシの有罪判決を受け服役した著者の拘置所および刑務所での生活を描いた作品である。この作品の特徴は、房内の間取りや備品、受刑者の日課、食事の献立など、拘置所・刑務所の生活をこれでもかと言うほど事細かに再現しているところである。同作は、刑務所の内部を描いた作品ではあるが、少しも暗さがなく、刑務官の非人間的な小役人的横暴を告発するようなものでもない。作品全体を貫くひとつの大きな筋がある訳もなく、むしろ執拗な細部描写が刑務所をテーマ・パークのようにすら見せている。この作品のオリジナリティは、刑務所の中にも人間の生活があることを描いているところだと言えるだろう。

 その作中で、「免業日」についての記述がある。詳しくは解らないが、刑務所内の作業が休みの日が免業日である。免業日には、優秀な受刑者は「集会」に参加できる。「集会では菓子を食べ/カン入り飲料を/飲みながらビデオ映画/を見るのだった」(p. 219。「/」は改行を示す。以下同様。)。その場面で出されていたお菓子が、件の「アルフォート」だった。

 受刑者は、体育館で映画を見ながら「やっぱり/「アルフォート」だったな/よかった」「ん〜/ん〜/いい! いい!/最高」と歓喜し、胸ポケットに入れた缶のコカ・コーラを飲んで「くう〜/こたえられねえな」と嘆息したあと、再び「アルフォート」を「スクリーンを/見ながら/指で残りを/かぞえて/大事に食う」。上映が終ると「ああ…今月の/集会も/終ってしまった/また来月まで/おあずけか…」と退場(pp. 226-227)。房に戻ると、甘いモノに飢えている同じ房の受刑者たちから口ぐちに「どうだった?」「飲み物は何だった」と聞かれると、「まだ口の中に…/チョコレートの甘いよいん」を残しつつ、それに応える(pp. 228-229。漫画内の傍点は太字で代用した)。

 このエピソードに倣い、「アルフォート」と一緒に、普段は飲みもしないコカ・コーラも買って帰り、夜にやっている映画を見ながら、漫画のマネをしてみた。別にどうという感慨もなかった。

 免業日には他にやることもないらしく、受刑者は皆たいてい寝ていることが作品の最後に描かれている。モノローグ風の次のようなナレイションで作品は締めくくられる:「免業日の/午後は/静かに/過ぎていく」「昨日は/いつも通り/午後9時に/寝て…」「7時40分に/起床した」「それでもまだ/いくらでも/眠れる…」「免業日は/運動もないので/檻から出される/こともない」「「桜が咲いて/絶好の行楽日和」/とか…」「「太平洋高気圧に/おおわれて海に山に/人の波が」/とかに完全に/無縁になってしまうと…」」「心の芯にあるしこり/のようなものが/体にしみだしてきて/だるくなって/いくらでも眠れる」「…そして/豚のことに思いを/はせたりもする…」「陽光/青空/大地/風/泥遊び」「一生無縁」(pp. 232-234)。私は、長時間眠ると気分が悪くなる質なので、基本的に異常な早起きで、「所さんの目がテン!」をオン・タイムで見るような日曜日の過ごし方をしていたりする。とはいえ、日々時間に追われる生活、この連休の過ごし方を顧みると、この漫画のなかの受刑者たちと自分との間にどれほどの差があるのだろうか。この作品には鮮烈でイデオロギッシュな主張などひとつもないが、最後に何だかジワリと効いてくる。連休も終りだなぁ。

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5月11日(水)

徘徊癖がある。

 時間があれば無闇やたらに歩くのである。休みの日に一日6時間ぐらい歩いたりもする。この間の連休のうち一日もそのように費やされた。山の手線の輪の中ぐらいなら歩いて移動しても何とも思わないが、友人に話すと決まって変人扱いされる。田舎者と東京人とは明らかに時間と空間に対する感覚が異なる。バスは一時間に1本、かつ最寄り駅まで 10km 以上離れた癖地で人格形成された私は、人に道を訊かれて──ちなみに、よほど人畜無害に見えるのか、とにかく私は人に道を尋ねられることが多い──「すぐ近くですよ。ここからホンの2km ぐらいです」などと言うと怪訝な顔をされる。

 先の連休の徘徊に話しを戻すと、その道すがら、某長崎ちゃんぽんのチェーン店(ものすごく限定されて、店名を伏せる意味がないような気もする)を見かけた。九州では生活の一部のように浸透した店だが、東京で見たのは初めてだ。そのときは食べなかったが、夜遅くまでやっているようなので、今日わざわざ帰宅コースを変更して寄ってみた。

 中に入ると、日本史の教科書に出てきそうなオランダ人が描かれた、いかにもアートなポスターなどが貼ってあり、なぜか間接照明だった。なぜ、薄暗いところでちゃんぽんを食べなければならないのかは解らない。私が知っているこのチェーンの店舗は、赤いトンガリ屋根が目印のファミリー・レストラン風の建物だったはずだが。カウンターとテーブル席のみの店構えで、座敷はない。東京のこういう店やラーメン屋には座敷がない。とにかく座敷がない。田舎のラーメン屋に行くと必ず座敷があり、親子連れが陣取っているものだ。店内にも店の子供がウロチョロしていたりして、「こっちも親子連れか?」などと思ったりするのが常だった。

 とにかく定版の長崎ちゃんぽんを頼むが、寂しいのでギョウザも付けた。ちゃんぽんは塩カラくてウマい、ギョウザは小さい。久びさに食べるちゃんぽんのスープの塩味が妙に懐かしかった。腎臓を病んで塩分を制限されている私の友人には、たぶん食べられない味だろう。この味は健康な人間にのみ許された特権だ。「塩カラい」と言ってケナしているわけではない。まさにこれを食べたかったのだ。それに、とにかく安い。長崎ちゃんぽんとギョウザで¥661 だった(と思う)。東京の飲食店では破格の安さだと思う。

 後で調べたら、よく行くお茶の水にも店があり、私の家に遠くないところにも開店していることが判った。東京都内に結構たくさん店を出しているようだ。またそのうち行くかもね。


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