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守衛所日誌
思いついたことを、思いついた日に書く不定期日誌。

2005年4月前半

4月2日(土)

今日は吉本興行のお笑い芸人が電気街口前の特設ステージでライヴをやるというので、秋葉原へ出かけてみた。電車内の広告によると、ペナルティーとあと2組と B & B が出演するとのこと。

 ペナルティーというお笑い芸人をご存知だろうか? NHK 教育のドイツ語講座に出ていたので知っている人も多いと思うが、全国的な知名度はボチボチというところではないかと思う。しかし、CBC テレビのある番組のあるコーナーにより、東海地域では圧倒的な知名度を誇っているらしい。名古屋在住の私の友人もこのコーナーのファンだが、彼らを直接見たことはないらしい。ペナルティーを見て、この友人に自慢してやろう──電車内の広告を見たときに閃いた。

 いつ始まるか判らなかったが、駅に着いたら丁度これからというところでラッキーだった。ペナルティーはフリー・トーク(風のネタ)のあとショート・コントをいくつか披露。ヤヤウケか。あとふた組はマダマダ。 しかしトリを務めた B & B はスゴイ。ベテランということもあり、ネタにこれといって新しさは感じないし、はっきり言ってベタなネタなのだが、ベテランならではの舞台上でのパフォーマンスは流石で次々に笑いをとっていた。

 ステージが終ると、Sofmap の中古楽器館を覗いた後に秋葉原を後にして、昌平橋を通ってお茶の水へ。ここでも楽器屋をハシゴ。ただし見るだけ。FERNANDES から出ているアンプ内臓ギター「ZO-3」のベース版「PIE-ZO」は、なかなか安くならない。試作段階では5弦ベースも企画されていたらしい。フレットレス・ベースや7弦ギターが出せるなら5弦ベースも出してくれれば買ったのに、と思っているのは私だけではないはずだ。

 そしてそのまま神保町へ。またこのパターンか。書泉グランデで、ブラック・ライター特集ということで、普段は手にも取らない『ミステリマガジン』5 月号を手に取る(そして戻す)。東京外国語大学の荒このみ教授による記事は、トニ・モリソンに至るアメリカのブラック・ライターの系譜を一気に概観でき、非常にためになる。オススメです。ちなみに私は、ラルフ・エリソンThe Invisible Man で、在日コリアンの問題を想起してしまう(同列のものとして論じることができるという意味では必ずしもない)。古書展ではなにも買わなかったが、古書会館のトイレを初めて使用した。個室の壁のラベンダーっぽい色がとても良い。女子トイレは違う色かもしれない。

 池袋にも寄る。P' パルコの楽器を覗いた後、TOWRE RECORDS で Steely Dan の新しい CD を発見。あるアメリカのラジオ番組に出たときの音源を納めた輸入版。日本語版は出ないだろう。Steely Dan は私の最も好きなミュージシャンのうちのひと組なのです。これまた私の最も好きなジャズ・スタンダードのひとつの "Mood Indigo"(Duke Elinton)が納められている。実は、これらの音源は某ファン・サイトですべて mp3 で(非合法に)公開されている。たぶん Steely Dan サイドは見て見ぬ振りをしているのだと思うが。よって、もちろん私は既にすべて聴いているのだが、それでも買うのです。ファイル交換ソフトウェアーを使ったコピーの流通が CD の売り上げを落としていると言われる。確かにそれも事実とは思うが、所有する悦びを満たさない、購入するオブセッションを惹起しない CD は、結局は音楽の歴史に何も刻まず、ただ消費され、消えて行くのみなのです。Steely Dan のカタワレの Donald Fagen の 3rd ソロ・アルバムが現在製作中とか。楽しみ。ちなみに、Steely Dan はジャズとブルースをベースに多様な音楽要素を取り込んだサウンドとビート・ジェネレイションに影響を受けた詩を特徴とするグループです(こんなマトメでいいのかな? ウルサガタのファンに怒られそうな)。次の休みにでも、オリジナル・アルバムを全部聴き通す Steely Dan マラソンでも開催しようかな。

 ジャズがらみで言うと、TOKYO FM で AVANTI の後にやっている 10 分番組 Jazz in Tokyo のナヴィゲイターがジャズ・シンガーの akiko から元 SPEED のhiro に代わっていた。テンション下がるワ。

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4月3日(日)

今日、偶然テレビをつけたら、MXTV(東京のローカルなテレビ局)で『西遊記』の再放送をやっていた。堺正章と夏目雅子の『西遊記』だ。これらかも見ようかな。ゴダイゴの曲のセンスには、今だに驚かされる。素晴しい。


4月4日(月)

あるインターネット・ラジオのバックナンバーを聴いていたら、主催している合資会社の社主兼メイン・パーソナリティーの ParaT が平野みどり熊本市議会議員と街づくりについて語っていた。九州新幹線のお客を熊本にどう流すかという交通政策の話題の流れで、ParaT が人を血液、交通網を血管(九州新幹線を大動脈、熊本市交通を毛細血管)に譬え、これに加えて、街そのものを器官になぞらえトータルな都市計画みたいなことを提案していた。個人的に有機体論は嫌いだが、その話のなかでひとつ気になったのは、熊本市をベンチがない「休憩できない街」と呼び、お金とは直接関係ないものも含めた街づくり戦略の重要性に言及していたことだ。

 これは東京にもあてはまる。ベンチがあっても、妙に落ち着かない場所にあったり、ホームレスの寝泊まりを阻むために区切られた「サディスティックな」ベンチになっていたり、ハッキリいって居心地が悪い。

 ちなみに熊本市は、水道に地下水を利用している珍しい県庁所在地だそうで、すなわち「蛇口をひねるとミネラル・ウォーターが出てくる街」だそうだ。私の田舎も地下水を使っている。水道網はない。ド田舎ですので、停電すると地下水を汲み上げる電動のポンプが作動しなくなり断水することを思い出した。初めて東京に出て来た時は、水が不味いと聞いていたのでかなり身構えて飲んだが、それでも思わず「不味い」と呟いてしまった記憶がある。当時は池袋の空気が黒く見え、「これは人間の住むところではない」と思ったものたが、今ではそれも感じなくなった。慣れとは恐ろしい。


4月10日(日)

辺見庸が『サンデー毎日』で連載していた評論「反時代のパンセ」をまとめた単行本3冊をパラパラと読み返してみた。辺見庸を初めて知ったのは、彼が『自動起床装置』で芥川賞を取った時だ。タイトルの面白さに単純に興味を引かれて買った憶えがある。作風からもっと若い人かと当時は思っていた。『自動起床装置』のトーンは「反時代のパンセ」のそれとはかなり異なるが、現代社会批判というテーマは両者とも一貫していると言える。

 改めてザッと読み浚って最も印象に残ったのは『永遠の不服従のために』(毎日新聞社、2002年)のノーム・チョムスキーとのインタヴューについての下りだ。アメリカの言論統制を案じていると水を向けても、期待通りの応答が得られないどころかことごとく反駁された辺見は、チョムスキーのこの態度を「言論の自由は、闘ってこそかちうるものだ、愚痴をいっているばあいではない」(p. 184)という認識の顕れと読み取る。また辺見は、チョムスキーの言様を次のように表現している:

 彼の語り口はある意味で驚くほどメタファーに乏しかった。文芸的レトリックも皆無といっていいほどだ。もっぱら乾いた事実の積み重ねでもって、マスメディアの虚偽、左右の知識人の偽善と惰弱をくちをきわめてなじるのだった。修辞を極端なほど拝したその語法は、おそらく十分に意識的なのであろう。その分だけ信頼でき、また、その分だけとりつく島もない。私は嫌われていると思いつつ、同時に、眼前の人物に畏怖の念を感じていた。こんな男、正直、見たことがなかった(p. 185)
これに対して、辺見は、インタヴューの直前に偶然読み返した(らしい)『アンティゴネー』や石川淳の「マルスの歌」の「かよわい反戦」への愛着を吐露する。そして、辺見は、このインタヴューを通じて次のことに当惑とともに気付かされたと語る:
それは、当方がくどくどしく語り悩むほどには物理的に闘ってはいないこと。肝心の自国権力とはろくな闘争もせず、その自堕落を反米論調でまぎらかし、自他ともに欺いていることである。(p. 189)
 私は、これを読んでいて、辺見とは少し違うことを考えた。

 テオドール・W・アドルノは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったが、正直なところ「これは、アウシュヴィッツと表象の限界についてのテーゼだ」程度の理解に放置した状態で今日まで来た。ただ、ハーマン・メルヴィルが近代を「散文的な」時代と考えたのと同じく、ドストエフスキーが「二二が四というのは、もはや生活ではなくて、死の始まりにすぎない」と感じたように、911以降ようやくアドルノのかのテーゼの意味が解った(別にアウシュヴィッツと911が同列のものだと言いたい訳ではない)。

 私は、アメリカがアフガニスタンやイラクをあのようなかたちで侵攻するとは、万にひとつも考えてはいなかった。なんだかんだで結局は、外交交渉のレトリックが、圧倒的な破壊以外の落とし処を見出すことを信じていた。しかし、現実に顔前に顕れたのは、哲学ではなく教条の、詩ではなく力の圧倒的な勝利だった。その勝利のあまりの呆気なさは、それを説明することも抵抗することもできない、無力な言葉の敗北の容け入れを無理強いしてくる。 忘我の真空状態を容赦なく衝いてくるのだ。

 もっとも、辺見がこのことには自覚的なことは、『永遠の不服従のために』に収められた「戦争」(pp. 136-173)から判る。

 ただ、上述のチョムスキーとのインタヴューで「マルスの歌」を反芻する辺見は、ときおりせわしなく揺れるチョムスキーの「デニムのパンツをはいた細い足」の先の「白いビニールの安っぽいスニーカー」に「「マルスの歌」が軽く蹴飛ばされているような気」がする(p. 188)のである。確かに、辺見が感じたように、「修辞を極端なほど排した」チョムスキーの冷淡さは、チョムスキー-辺見の二者関係から読み解けば、闘わない者への訓戒と言える。しかし、もう少し視界を拡げて読み解けば、別の側面が見えてくる。詩は、詩を解しない者に対する闘いの基盤にはならない。哲学は、教条の盲信者を説き伏せるための円卓を提供できない。チョムスキーが示す冷淡さは、詩の終わった時代における、闘いに臨むための構えではないか、と私は感じた。

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4月11日(月)

中国では反日デモがブームのようだ。

 中国人の友人がいるので、ああいうのを見ると困惑してしまう。もちろん市民にはデモを打つ権利はあるが、今回の件は抵抗権の範疇を超えているような気もする。まぁ、国旗に愛着のない私としては、国旗を何枚燃やされようが別にどうということもない。ニュース映像を見ていると、着火から火に勢いがつくまでに少し時間がかかるようなので、カメラ映えのする、よく燃える国旗を安く仕入れて売れば儲かるのではないか、などと不謹慎なことを考えてみたりさえする。もちろん、国旗を心から慈しむ人たちに不快と怒りを惹起する、そのような行為を本気でやってみようなどとは、私はゆめゆめ思ってはいない。憲法に則って、妄想の自由を少しばかり享受してみただけの話だ。

 日本の巷の主要な論調は、「日本人は中国に対してオープンなのに、どうしてこんなことをされなければならないのか。悲しい」みたいな感じだろうか。とはいえ、万景峰号が新潟に来る度に、岸辺に街宣車を並べてシュプレヒ・コールを上げている人たちと、中国の反日デモはどれほどの違いがあるだろうか? さすがに今のところは、日本で中国人留学生がビール・ジョッキで殴られたという話を聞かないのがせめてもの救いか(かつて朝鮮学校の女生徒のチマチョゴリを切裂いたヤツははいた)。生活のレヴェルでは、中国人は日本人から小馬鹿にされ、差別語で罵られ続けているではないか。私は実際にそういう場面に何度も出くわしてきた。

 私から見れば、現状は、ただの内弁慶同士の野次合戦にしか見えない。中国の反日デモ隊は、日本の街角でも国旗を燃やすガッツがあるのか? 岸辺の街宣車の面々は、ピョンヤンの街角でシュプレヒ・コールを上げる覚悟があるのか? 自国内で「安全な危険」を弄ぶことで真の愛国者にでもなったつもりだろうか? 当人の目の前でやれないことを安全な場所でやることは別に英雄的な行為でもなんでもない。シンドいけど、キレずにネバって現状や歴史を精査すれば、対話への途筋がたつかもよ。

 万国の内弁慶よ、自己を他者に開示せよ!


4月12日(火)

スゴい人見たなぁ。

大音量音楽24時間で不眠に 2年以上、隣家の女逮捕(共同通信 2005年04月11日)
 CDラジカセを大音量で鳴らし続け、隣家の女性(64)を不眠にさせたとして、奈良県警西和署は11日、傷害容疑で同県平群町若葉台、主婦河原美代子容疑者(58)を逮捕した。
調べでは、河原容疑者は2002年11月から今年3月までほぼ毎日24時間、自宅勝手口のドアに穴を開け、道をはさんで約6メートル離れた隣家にアップテンポの音楽を大音量で流し、女性に不眠や頭痛、めまいを起こさせた疑い。調べに対し、動機の供述を拒否しているという。
西和署によると、河原容疑者は約9年前からこうした嫌がらせを始め、近隣住民との間にトラブルがあったという。女性が約1カ月の治療が必要と診断を受けたため、傷害容疑で捜査していた。
 私としては、次のような点が気になる:
<ポイント1>
 ニュース映像を見た感じからも、上に引用した記事からも、河原容疑者は主婦のようだが、ダンナはイッタイ何をしていたんだろう。
<ポイント2>
 以前、ある母親が幼稚園の娘の同級生を殺害し「お受験殺人」として騒がれた事件があった。娘が「お受験」に失敗し、娘の同級生は合格したことを妬んでの、文字通りの「お受験殺人」として矮小化されていたが、実際にはもっと多面的で継時的な過程を経ての結果だったと思われる。今回の事件の河原容疑者も、いきなりあの「境地」に達した訳ではないだろう。確かに、河原容疑者を招かれざる他者、あるいはキワモノとして非難・排除するのは簡単だ。ことの始まりから逮捕までの過程を河原容疑者の立場から見た理解社会学的分析も興味深いのではないか。
<ポイント3>
 なんであの曲なんだろう。あのオバサンがあんな曲を好んで聴いているとは思えない。効果的な嫌がらせのための、目的合理的な選曲なのだろうか。
 それにしても、あのエネルギーは尋常じゃないな。目がイってる。ひと昔前までは「まぁまぁ、落ち着け。話せばわかる」などという言辞が普通に通用していたが、最近では老若男女問わず話合いが成立しそうにない人が目立つ。話ができない人に会うと、本当に絶望的な気持ちになる。

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