2月1日(火)
最初にアナウンスします。長いですよ、今日の日記。
シャーロック・ホームズの検索サイトを立ち上げて以来、ホームズ関係のサイトを閲覧する機会が増えている。ホームズとワトスンを同性愛的に脚色したパスティーシュ・二次創作を執筆・公開しているサイトが結構あるようだ。私は、へテロセクシュアルな男で、女の人が好きなので、そうした作品の世界に必ずしも没入はできない(もとより男性の読者を想定していないのかもしれない)。とはいえ、ホームズへの愛をもつ人びとは基本的には同志であり、愛のかたちを問うつもりはない。
また、社会現象としての同性愛的パスティーシュ・二次創作は非常に興味深いし、近現代という時代を考えるうえで、ジェンダーやセクシュアリティの問題は非常に重要なテーマであり、面白い発見がキットありそうなので、毛嫌いせずに読んでみることはやぶさかでない。
そう考えるにつれ、「ホームズとワトスンの同性愛」というモチーフは、パスティーシュ・二次創作の単なる「設定」であるばかりでなく、少し真剣に考えてみても良いテーマなのではないかと思い立った。
初めにタネを明かすと、イヴ・K・セジウィック(上原早苗/亀澤美由紀[訳])『男同士の絆──イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(名古屋大学出版会、2001年)の道具だてで「ホームズもの」を読んでみるとオモシロいのではないかと思った、ということである。
言いたいことはそれだけなのだが、セジウィックの名をはじめて聞く人のために、蘊蓄を少々。 ここでは「ホモソーシャル」という概念を説明しておこう。
近代社会は、男同士の連帯により支えられてきた男社会であった。男同士の連帯は、実のところ、男同士のホモセクシュアルな欲望と切れ目のない連続体を成している。従って、本来なら両者のあいだを自由に行き来することが可能であり、近代以前は、男が男の欲望の対象となることはしばしばであった(俗っぽく言えば、友達は「ホモ達」に成りえたし、友達もいれば「ホモ達」もいるという状態も可能だった)。しかし、この行き来可能状態で、男同士のホモセクシュアルな欲望が恒常化すると、男同士の連帯に基づく近代社会の規範・秩序は、安定性を失ってしまう(「性の乱れは社会の乱れ」ということ。出勤したら同僚とおはようソドム、取引先の担当者と打ち合わせの後にこんにちはゴモラ、帰りに電車で目が合ったあの男(ひと)とおやすみ熱帯夜──これじゃぁ、社会はメチャクチャです)。
この危険性を防ぐため、第三の項としての女性の存在が重要となってくる。専ら女性が男の欲望の対象となることで、男が男の欲望の対象となることが回避される。ここでの性愛のかたちは専ら異性愛となり、同性愛は抑圧・排除の対象として社会の周縁へと追いやられる(そしてオスカー・ワイルドは、ロンドンにいられなくなり、パリへ渡った)。また、女性が欲望の対象として交換・共有されることで、男がホモセクシュアルな欲望の対象へと転化することが阻止され、男同士の連帯が維持される(俗っぽく言うと、女性の存在が「ホモ・ストッパー」になるということ)。
ここでいう、欲望の対象としての女性の交換・共有には、具体的な性行為の場面における交換・共有(意味、解りますよね。団鬼六の世界ですよ)ばかりではなく、例えば、結婚制度や男性向け性産業の存在も含まれる。また、「従軍慰安婦」や基地周辺における風俗街の林立は、軍隊が男同士の連帯による集団の最たるものであることと関係する。また、女性が交換物・共有物と位置付けられる男社会においては、女性は蔑視され、低い社会的地位に甘んじされられる。
一文でまとめると、同性愛嫌悪(ホモフォビア homophobia)と女性嫌悪(ミソジニー misogyny)が男同士のホモセクシュアルな欲望を抑制することで維持される男同士の連帯を、ホモソーシャルな関係という。
解り易さを優先し、危険を覚悟して多少乱暴なまとめ方をすると、「ホモセクシュアル=男同士の性的欲望、ホモソーシャル=男同士の連帯」ととりあえず言ってみることで理解の補助線になるかもしれない(これは、「ホモソーシャル」という概念の含意を狭める非常に危険な単純化なので、興味のある方はぜひセジウィックの議論を直接参照することをお勧めします)。
同書でセジウィックは、以上のような道具立で、例えば、シェイクスピアの『ソネット集』などを読解している。
この問題関心は、実は日本映画、大島渚監督作品『御法度』(松竹、1999年)のなかで展開されている。新撰組という男同士によって組織されている武闘集団へ、美少年剣士が加入したことをきっかけに、それまでホモソーシャルに維持されていた集団の規律が、ホモセクシュアリティへと融解し、組織が機能不全に陥る──『御法度』の骨子は、以上のように要約できるだろう。ただ、新撰組という歴史上実在した集団に題材を取る以上、史実から大幅に逸脱することができず、主題の展開は制約を受けざるを得なかったのではないかと思う。残念。
その点、ホームズはイロイロとやれる、無茶ができる。それに、ホームズとワトスンの男同士の連帯、ホームズの女性嫌悪(「ボヘミアの醜聞」)など、条件は十二分にそろっている。ホームズとワトスンの男同士の連帯のほころびにホモセクシュアルな欲望の契機を見出し、これを一篇のストーリーとして展開することで、ヴィクトリア時代の(ひいては現代の)性規範の在り方を問う──「ホームズもの」の同性愛的パスティーシュ・二次創作には、こんなジャーナリスティックな可能性があるかもしれないし、ないかもしれない。
なげ〜な、コリャ誰も読まねぇ。
その他参考作品
イヴ・K・セジウィック(外岡尚美[訳])『クローゼットの認識論――セクシュアリティーの20世紀』(青土社、1999年)
ジュディス・バトラー(竹村和子[訳])『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社、1999年)
ミシェル・フーコー(渡辺守章[訳])『知への意志』<性の歴史I>(新潮社、1986年)
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2月2日(水)
アイルランドの大統領にして法学者、メアリー・マカリース女史(Ms. Mary McAleese. 『ウィキペディア(Wikipedia)』 による日本語解説はここ)が、来月、日本に来るらしい。セイント・パトリックス・デイ(3月17日)にあわせての来日か?
2月3日(木)
マクドナルドのコーヒーはおかわりできるんスか? あるインターネット・ラジオ(第437回「2005年1月30日放送分 D」8'00"ごろ)で言っていたけど……。
2月5日(土)
オモシロそうな本が出ている。東京堂出版編集部[編]『全国紙社説総覧』(東京堂出版)
だ。概要は以下の通り:
04年1月以降、全国紙5紙で掲載された社説を網羅する『全国紙社説総覧』(東京堂出版)の刊行が始まった。
今週の本棚・情報:全国紙5紙の社説を網羅
むむむ……オモシロそうだけど高い。買う本じゃないな。
毎日、朝日、読売、日本経済新聞、産経の5紙が対象。それぞれの社説を3カ月ずつ、時系列ですべて掲載する。現在発売しているのは2004年1〜3月、4〜6月分の2冊で、7〜9月分が25日刊行予定。政治、経済、社会、時事問題などを振り返り、さらに同じテーマで各社の主張を比較検討することができる。ジャーナリズムの研究者や就職、入学試験などにも役立ちそうだ。
04年10〜12月分は来月、05年1〜3月分は5月にそれぞれ刊行。以後3カ月ごとに1冊ずつ刊行する予定。各1万2600円。
『毎日新聞』2005年1月9日 東京朝刊
2月7日(月)
2月6日(日)は、私のサイトへのアクセスは0件でした。ある意味スゴイ。
2月9日(水)
ネットを検索中に発見! 先日の日記に書いたアイルランドの大統領が東京大学駒場キャンパスで講演をするらしい。セキュリティーの関係で事前申し込みが必要のようだけど、聴きに行くことは可能のよう。行ってみようかな。3月16日は駒場で国家元首に会おう。
2月13日(日)
自分のサイトが、検索エンジンで何番目に出るか気になるものですが──少なくとも私は少し気にします──以前に Google で "シャーロック・ホームズ" で検索したときは、私のサイトはハシにもボーにも引っ掛からなかったのですが、本日の検索で、ナント、61番目に来てきました。とはいえ 60 番目ならひとつ前のページにのれたのに……。でも、フツー 61 番目まで検索結果を見るものだろうか? それにしても、つい最近「アクセスは0件」を記念したことを考えれば、大きな進歩です。ここはひとつ、SEO でも始めるか?
2月15日(火)
2月11日(金・祝)から始まった読書会「シャーロック・ホームズを読む」が、予想以上の盛り上がりで、発起人としては嬉しい限りです。
この喜びを表現するために、以下のような画像を公開します。
「ホームズ、いったいあれは何だい?」 「コマネチだよ、ワトスン」 |